■信長の居城に関する三つの疑問

織田信長の居城について調べていくと、いくつかの疑問が湧いてきます。

①彼はなぜ城から城へと頻繁に引っ越して居城を変えたのか。

②あまり栄えていない安土に城を構えたのはなぜか。
③どうして京に城を構えなかったのか。

今回は、この三つの疑問を前編・後編に分けて解いてみたいと思います。

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織田信長(Wikipediaより)

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織田家のもともとの領地は尾張の東部であり、信長が最初に居城としたのは那古野城でした。信長の父・信秀が今川氏豊から奪い取った城で、現在の名古屋城の二の丸あたりにあったといわれています。

信長は1534年にここで生まれています(尾張勝幡城で生まれたとする説もあります)。

並の大名なら生まれた土地で生涯を過ごすことが多いわけですが、信長はそうではありませんでした。次々と引っ越していくのです。

いわば信長は「引っ越し魔」でもあったわけです。まずは、その経緯を見ていきましょう。

■「引っ越し魔」織田信長

まず、彼は青年期までを那古野城で過ごした後、1555年に清洲城へ本拠地を移します。それにともない、那古野城は廃城となりました。


しかし清洲にいたのも10年間ほどで、尾張を統一して隣国の美濃へ攻め入る前の1563年には小牧山城に移りました。

小牧山城は、新しく平野の中の丘に築いた城でしたが、城下町が建設されます。そして信長と家臣だけでなく、商人や職人も清洲から移転してきました。

この小牧山を本拠地として、信長は美濃の斎藤氏を攻めました。

ところが、山頂にある美濃の稲葉山城は難攻不落の城として知られ、信長軍も攻めあぐねました。ここでご存じの通り木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の活躍もあって、ようやく1567年に稲葉山城は落城しています。

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かつての稲葉山城、現在は岐阜城

すると、信長は今度はその稲葉山城を居城とし、名を「岐阜」と改めます。

そして、最後が安土城です。琵琶湖の湖畔に築城したものでこれは1576年に完成しました。

信長はこのように居城を次々と変えていった「引っ越し魔」のようなところがあったわけですが、これはなぜでしょう。

■安土城の謎

前述のとおり信長は「引っ越し」を繰り返したわけですが、その理由として「制圧した地に住み」なおかつ「そこを次の攻撃の最前線基地にする」という狙いがありました。

信長の居城の変遷は、天下を目指した信長の野望の軌跡でもあったのです。


しかし、するとなぜ信長の最後の「住居」は安土城だったのか、という疑問が湧きますね。

信長は京の本能寺で命を落としましたが、そこは宿営地に過ぎませんでした。その時点での信長の住居があくまでも安土城だったということなのです。

信長を討った光秀としては、すぐに安土城に入り、天下にする姿勢を示す予定だったようです。しかしそれを防ごうとした勢力の仕業なのか、安土城は炎上して焼け落ちてしまいました。安土城が、今でも「幻の城」であることは皆さんもご存知の通りです。

織田信長が戦国きっての”引っ越し魔”だったのは何故?安土に城を築き、京に築かなかった理由【前編】


安土城天主信長の館(安土城復元天主) 滋賀県近江八幡市安土町(Wikipediaより)

信長が活躍した時代を「安土時代」ともいいます。しかし、実際には信長がここに住んだのはわずか三年でしかありません。

安土城が完成したのは1576年ですが、信長が本格的に住むようになるのは79年以降のこと。そして82年に本能寺の変を迎えているのです。

安土は琵琶湖の湖畔の町であり、いまも小さな町です。信長がここに城を築く以前も、決して大きく栄えていたわけではありません。


なぜ彼はそんな安土に最後のものとなる居城を構えたのでしょうか。

その答えは【後編】で解説します。【後編】の記事はこちら↓




織田信長が戦国きっての”引っ越し魔”だったのは何故?安土に城を築き、京に築かなかった理由【後編】
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参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

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