世界中には多くの君主が存在しますが、日本の京都御所ほどセキュリティの甘かった御在所はなかったのではないでしょうか。

それは臣民らへの信頼ゆえか、あるいは単に意識や予算の欠如ゆえか……。


何とも言えないところですが、今回は内裏へ乱入した無法者たちのエピソードを紹介したいと思います。

※あわせて読みたい記事:

悪党に甘すぎる藤原彰子!?平安時代の強盗殺人犯に彰子が下した刑罰は……【光る君へ 後伝】
【光る君へ】藤原彰子、危うし!?大胆にも御所へ乱入してきた”...の画像はこちら >>




■兄の仇を討つために……!

【光る君へ】藤原彰子、危うし!?大胆にも御所へ乱入してきた”博打打ち”たちに驚きが止まらない!


博打に興じる法師(イメージ)

時は寛仁3年(1019年)8月、右京で博徒らが争論していました。

右京とは平安京の西半分(御所≒天皇陛下から見て右側)で、しばしば桂川の氾濫にさらされる湿地帯です。

満足な家も建てられず、田畑にも不向きであるため、低所得者層が仮小屋をかけて寝起きするスラム地域でした。

そんなところに博打打ちが群がるのは自然の流れ。

博徒らの争論と言えば、イカサマをしたとかイチャモンつけるなとか、おおかたそんなところでしょう。

あまりにもありふれた日常光景ですが、この日はちょっと違いました。

「てめぇ、ふざけんじゃねぇぞ!」

争論に激昂した法師がいきなり抜刀し、そのまま相手の男(以下、甲)を刺し殺してしまったのです。

「この野郎、よくも兄貴を殺りやがったな!」

男の弟(以下、乙)は怒り狂って法師を襲撃。とても敵わぬと見たのか、法師はたちまち踵(きびす)を返して逃げ出しました。

乙「待ちやがれ、この腐れ坊主!」

法師「待てと言われて待つバカがあるか!」

逃げる法師に追いかける乙。二人は延々と走り続け、そのまま朔平門(さくへいもん)から御所の中へ。


【光る君へ】藤原彰子、危うし!?大胆にも御所へ乱入してきた”博打打ち”たちに驚きが止まらない!


御所の門(イメージ)

朔平門とは御所の北門に当たります。スタート地点がどこか分かりませんが、よりによって御所へ逃げ込むとは、大胆不敵にも程があるでしょう。

と言うか、門衛は何をしていたのでしょうか。二人を止めなかったか、それともよそ見でもしていたのか……とんでもない緩さですね。

乙「この野郎、どのまで逃げる気だ!」

法師「お前が追って来なくなるまでた!」

御所へ乱入してもまだまだ続く逃走劇。ついに二人は滝口までやって来てしまいました。

滝口(たきぐち)とは雨水が樋を伝って流れ落ちる場所で、滝のようだったためそう呼ばれています。

そのすぐ側には太皇太后である藤原彰子(しょうし/あきこ)の御在所がありました。

ちなみに太皇太后(たいこうたいごう)とは、先々代以前の皇后・中宮に与えられる称号です。

「この野郎、ついに捕らえたぞ!」

「「放せ!」」

ここまでやって来て、ようやく二人は滝口武者(~のむさ/むしゃ)らに捕縛されたのでした。



■驚きの数々

【光る君へ】藤原彰子、危うし!?大胆にも御所へ乱入してきた”博打打ち”たちに驚きが止まらない!


殺された博徒(イメージ)

かくして検非違使に身柄を引き渡された二人。その後どうなったのかについては、『小右記』作者である藤原実資の興味外だったようで、詳しい記録がありません。


それにしても、色々と驚きの連続でしたね。

【驚きポイント】

1、僧侶が博打をしていたこと。

2、僧侶が抜刀・殺人に及んだこと。

3、追われ追いかけ、御所の朔平門までやって来たこと。

4、そのまま御所へ乱入したこと。

5、滝口に至るまで、誰も止めなかった(止められなかった?)こと。

現代の感覚では、とんでもない不祥事以外の何物でもありません。

ただ、平安時代の古記録を見ていると、似たような事例はちょくちょくありました。

さすがに太皇太后の身に危険が迫りかねない事態は少ないものの、この日に御所を警固していた官人たちは、どんな処分が下されたのでしょうか。

NHK大河ドラマ「光る君へ」では登場しないでしょうが、こんな珍事件も御所の中で起きていたのでした。

※参考文献:

  • 倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ