平安時代、一家三后という前人未到の快挙を達成し、権力の絶頂を極めた藤原道長。

「この世をば……」と望月の歌を詠むほどの権勢を誇り、その子供たちもさぞいい思いをしていたのかと思いきや、全員がそうではありませんでした。


何かと優遇された正室・源倫子の生んだ嫡子らに対して、側室・源明子らが生んだ庶子は鬱屈した思いを抱えていたようです。

今回は藤原道長の次男・藤原頼宗(厳密にはその従者)が起こしたトラブルを紹介。やり切れぬ思いが、彼らを非行に走らせたのかも知れませんね。

■実資の従者を罵辱

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実資に被害を訴える従者(イメージ)

時は長和元年(1012年)5月、頼宗に仕える従者が、藤原実資の従者を罵辱しました。

どんな理由(言いがかり?)で、どれほど口汚く罵り辱めたのでしょうか。

その詳細は記録に残っていませんが、ほとんど凌轢(りょうれき)に近かったと言います。

凌轢とは車で轢きにじること。実際に牛車で轢く場合もあれば、そのように強い痛手を負わせたという喩えかも知れません。

しかし従者というものは主人に似るのか、実資の従者は主人に迷惑をかけまいと、必死に罵辱を耐えたと言います。けなげですね。

ボロボロの状態で戻ってきた従者を見て、実資は愕然。従者の忠節をねぎらうと共に、頼宗へ使者を送りました。


すると頼宗はすっかり恐縮。実資に対して「ただちに陳謝し、暴行に及んだ従者をそちらへ引渡します」と返答します。

思いのほか素直な頼宗の対応。しかし実資はこれに気を許さず「その必要はありません」と重ねて回答しました。

それと同時に、実資は道長に対して真相を伝えます。

実資は頼宗を警戒しており、道長に対して自分を讒訴することを想定。先回りしておいたのでした。

実資の先手が功を奏したのか、道長も頼宗も特に何か言ってくることもなく、事件は有耶無耶になったようです。



■みな目くばせするばかり?

【光る君へ】藤原実資の従者を罵辱!道長の庶子・藤原頼宗が抱える鬱屈した思い…


藤原実資。菊池容斎『前賢故実』より

しかし頼宗の従者は収まりませんでした。

翌日には内大臣である藤原公季の従者を凌轢。何がそれほど気に食わないのでしょうか。


この話を聞いた実資は、大いに嘆息したそうです。

「あの従者は狂乱しており、道長の権勢に忖度して何も言えず、互いに目くばせしあうばかりである(意訳)」

従者の不始末は主人の不始末……あまりの乱行を見かねた道長は5月22日に頼宗を呼び出しました。

その内容は知らされていないものの、さぞかし油を搾られたのではないでしょうか。

道長は実資らに対して、頼宗の不行跡を詫びたそうです。

「此度は愚息が大変迷惑をおかけして、申し訳ない」

実資とすれば、罵辱を受けた部下の手前、大いに責めてやりたかったことでしょう。

しかしここで調子に乗ってしまうと後が恐ろしい。実資は節度をもって答えました。

「いえいえ。大したことではございませんが、大事にならぬようあらかじめお伝えしたまでのことです。それよりも中将(頼宗)殿と書状をやりとりをしたところ、そのご返答はまこと理に適ったものでした」

とのこと。もっとハッキリ言ってやればいいのに……周囲の者たちも、そう思ったのではないでしょうか。

■終わりに

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傍目には、ずいぶんと恵まれた境遇だけど……(イメージ)

今回は道長の次男・藤原頼宗主従が惹き起こしたトラブル事例を紹介しました。


正室と側室の対立は道長一家に限った話ではありませんが、側室側はなかなか鬱屈していたようです。

大河ドラマ「光る君へ」の劇中では競わぬよう、争わぬようたしなめているようですが、言い換えれば「側室側が一方的に我慢しろ」と言われているのと変わりません。

今後、頼宗たちが嫡子ら(藤原頼通・藤原教通)とどんな関係を描いていくのか、最後まで見守っていきましょう。

※参考文献:

  • 倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月

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