大蔵種材(朝倉伸二)
大宰府の役人 大蔵 種材(おおくらのたねき)
朝倉 伸二(あさくら・しんじ)

大宰府の役人。刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)の際に軍功を立てる。


※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより。

NHK大河ドラマ「光る君へ」皆さんも観ていますか?

いよいよ物語も最終盤を迎える第46回放送「刀伊の入寇」では、異民族の襲来から日本を守る多くの武者たちが登場・活躍します。

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今回はそんな一人・大蔵種材(おおくらの たねき)を紹介。果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどるのでしょうか。

■殺人容疑で拘束される

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イメージ

大蔵種材は生年不詳、父親は大蔵種光(たねみつ)と伝わっています。

生年について詳しくは特定されていないものの、刀伊の入寇が発生した寛仁3年(1019年)時点で70歳を超える老齢でした。

そのため、少なくとも天暦4年(950年)以前の生まれであったと考えられるでしょう。

弓馬においては天下無双と称えられる腕前を誇り、岩間将軍の二つ名をとっていました。

大宰少監(だざいのしょうげん。大宰府の三等下官)を務めていましたが、寛弘4年(1007年)に大隅守を務めていた菅野重忠(すがのの しげただ)を殺害します。

下手人は息子である大蔵満高(みつたか)。恐らくは利権抗争が激化した結果でしょう。


果たして重忠の遺族から訴えられた種材は、その処遇について寛弘5年(1008年)5月に陣定で協議されました。

協議することおよそ半年、同年11月になって種材は左衛門府に身柄を拘束されます。

しかし翌寛弘6年(1009年)7月に放免。殺人容疑でこの拘束期間は少し短すぎる気がしますが、何故でしょうか。

種材が当局に賄賂を渡したか、あるいは当局関係者が種材の報復を恐れたか、もしかしたら両方かも知れませんね。



■刀伊の入寇で逃げる敵を追撃

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刀伊の軍勢(イメージ)

かくして放免された種材は、大宰大監(~だいげん。大宰府の三等上官)に昇任します。

殺人事件の影響はほとんどなかったのでしょうね。あるいは在地の有力者だから、外すに外せなかったのかも知れません。

そんな中で刀伊の入寇に直面。種材は大宰権帥・藤原隆家の指揮下で刀伊の軍勢を迎え撃ち、大いに武功を立てました。

「賊どもが逃げていくぞ!」

刀伊の軍勢が退散する中、種材は筑前守で大宰少弐(だざいのしょうに。
大宰府の二等下官)であった源道済(みちなり)に追撃を進言します。

「今こそご下知を!」

「そうは申しても、まだ支度が整わぬ」

「ならば我れ一人にても参ります!」

種材はわずかな手勢を率いて追撃に出ますが、敵の逃げ足が速くて取り逃してしまいました。

それでも種材の敢闘精神は高く評価され、戦後の論功行賞にて壱岐守に任じられたということです。

■終わりに

それからというもの、種材がどのように暮らしてどんな最期を遂げたのか、詳しいことは分かっていません。

なお刀伊の入寇から200年ほど経って、元寇の際に水軍を率いて元軍と戦った女将・大蔵太子(たかこ/ふとこ)は大蔵種材の子孫と考えられます。

また刀伊の入寇から900年近くの歳月を越えた大正4年(1915年)、種材は従四位を追贈されました。

異民族の侵略から日本を守った功労者として、日本政府は高く評価したのです。

NHK大河ドラマ「光る君へ」では、朝倉伸二がどんな大蔵種材を演じてくれるのでしょうか。今から楽しみですね!

※参考文献:

  • 繁田信一『王朝貴族の悪だくみ 清少納言、危機一髪』柏書房、2007年10月
  • 関幸彦『刀伊の入寇 最大の対外危機』中央公論新社、2021年8月

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