桓武天皇(Wikipediaより)
しかし、その裏には天武系と天智系の対立や、仏教勢力との政治的な駆け引き、さらには民衆の負担増大という課題が潜んでいました。
一方で、平安京はしばしば「未完の都」と呼ばれることもあります。その理由は、計画段階で掲げられた理想が完全には実現されず、多くの課題を抱えたままだったからです。
今回は、桓武天皇がなぜ、平安京への遷都に踏み切ったのか、そして「未完の都」とされているのか、その理由を辿っていきたいと思います。
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平安京遷都の背景には、桓武天皇が平城京に抱いた3つの問題がありました。
1.天武系の影響が強い平城京桓武天皇は天智系の血統を引く天皇として、天武系の影響が根強い平城京に違和感を抱いていました。このため、自身の権威を確立するためには、新たな都を必要としました。
2.仏教勢力の台頭仏教の影響力が強まり、政治に介入する場面が増えていました。特に道鏡のような僧侶が政治に関与する問題が発生し、天皇中心の政治が脅かされていたのです。
3.水上交通の不便さ平城京は大きな河川が近くになく、物資の運搬に適していませんでした。これに対し、淀川や琵琶湖などの水運に恵まれた山背国(後の山城国)への遷都は、経済や防衛の観点からも有利でした。
これらの課題を解消するため、784年、桓武天皇はまず長岡京への遷都を試みましたが、造営を主導した藤原種継の暗殺や早良親王の非業の死、さらには疫病や飢饉が相次いだため、長岡京はわずか10年で放棄されました。
その後794年に平安京へ遷都し、ここから平安時代が始まることになります。

桓武天皇が進めた二大事業は「平安京の造営」と「蝦夷の平定」でした。
これらは日本の国家体制を強化するための重要な取り組みでしたが、大規模な労働力を必要とするため、民衆への負担は非常に大きいものでした。
1.「造作」 ~平安京造営事業~
遷都後も平安京の整備は完全には終わらず、段階的に進められました。和気清麻呂の提案によって、山背国は山城国と改名され、都を中心とした新しい地名が整備されました。
この造営事業には多くの農民が動員され、社会全体に大きな負担を与える一因となりました。
2.「軍事」 ~蝦夷の平定事業~
東北地方に住む蝦夷(えみし)の平定は、桓武天皇にとって緊急課題でした。780年、光仁天皇の代に伊治呰麻呂が多賀城を焼き討ちした事件を受け、桓武天皇は征東大使・紀古佐美を派遣しましたが、敗北に終わります。
その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、次のような成果を上げました。
802年:蝦夷の族長・阿弖流為(あてるい)を帰順させる。
802年:胆沢城(いさわじょう)を築き、鎮守府を多賀城から移転。
803年:志波城を築城。
805年、桓武天皇は藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ・式家)と菅野真道(すがのの まみち)に「良い政治とは何か」を議論させました。これを「徳政論争」といいます。この論争のなかで、緒嗣は次のように述べました。
「現在、民衆を苦しめているのは、蝦夷平定事業と平安京の造営事業です。この二大事業を停止すれば、民衆の苦しみはなくなります。」
真道は造営の責任者であり、中止に反対しましたが、最終的には緒嗣の意見が採用され、桓武天皇は二大事業の中止を決断します。
これにより、民衆は「造作」という負担から解放されました。その一方で、蝦夷平定はその後も断続的に進められ、811年には文室綿麻呂によって最終的な平定が行われました。
平安京遷都と蝦夷平定という壮大な事業は、桓武天皇の強い決意と日本の未来を見据えた政策でした。しかし、その代償として民衆が背負った負担もまた、見逃すことはできません。桓武天皇の時代は、当時の社会の在り方に大きな転換点となったのです。
参考
- 網 伸也『平安京造営と古代律令国家』(2011 塙書房)
- 桃崎 有一郎『平安京はいらなかった: 古代の夢を喰らう中世』(歴史文化ライブラリー 438、2016 吉川弘文館)
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