清河八郎(きよかわはちろう)は「将軍を守護する」という名目で幕府に費用を出させて、浪士隊を結成して京都にのぼったものの、京都についたとたん意を翻して尊王攘夷を唱えた人物として有名です。

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清河八郎

そのときに、「俺たちは京都に留まり、将軍を守護する」と袂を分かったのが、近藤勇や土方歳三ら、のちの新撰組の武士たちですね。


新撰組側から歴史を見ると、清河は口先三寸の軽薄な人物と思われがちですが、本当は一体どういう人だったのでしょうか。

実は浪士組を結成する以前から、何度も幕府打倒の活動をしていたのです!

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■江戸で最初の倒幕活動

清河八郎は、1830年、山形庄内藩の郷士に生まれました。若い頃から学問や武術に励み、自他ともに秀才と認識。

15歳のときに「このまま人生を無駄にしてなるものか。時が来れば江戸に出て天下に名を轟かせてみせる」という日記を書いてます。

その通りに、18歳(1847年)には江戸に出て名門の昌平坂学問所に入学。しかし「期待外れだった、こんな場所から大豪傑が出るわけがない」とけちょんけちょんに酷評した手紙を父親に送っています。

九か月で昌平坂をやめて京都に遊学するも、京都で出会う人々に対しても「万事が軽薄」とけちょんけちょん。「自分以上に優る人物はいない」と日記にしたためています。

剣術としての腕も高く、江戸で名門の千葉道場に入門、のちに師範代になります。

そのころ遊郭で「蓮」という女性と出会い、熱烈にアプローチをして娶ります。その新婚時代にペリーが来航(1853年)、幕府の外交に不満を抱き、次第に「今の幕府では日本が危ない」と倒幕の立場に転じます。
そして神田お玉が池に文武指南所を開いて同志を集め、倒幕挙兵を画策するようになります。

「一挙にして天子を奉り錦旗を奉じ、天下に号令すれば即ち回天の大業をたてん」

いわゆる尊王攘夷の思想が、既に固まっていたのです。

しかし、いよいよ活動を本腰に入れる際に、幕府の密偵とおもわれた町人を無礼討ちにしてしまい、逃げ隠れることになるのです。清河を失った江戸の同志は散り散りになりました。

■清河、京都で挙兵すんでだった

そのあと清河は全国を遊説して、文久元年(1861年)の32歳のときに九州を訪れ、薩摩藩が千人近くの兵を京都に送るという情報を得ます。

清河は、この薩摩藩の動きに呼応し、京都で全国の志士に呼びかけて300人を京都に集めます。

「近日中、義旗を相翻し回天の一番乗り仕るべく心底にござ候」
(我こそが回天の一番乗り、世の中を変える先駆けとなる)

と意気込んでいましたが、京都に潜伏してた薩摩藩の志士たちが検挙され粛清されてしまい(寺田屋事件)、またも計画は頓挫します。

清河は失意のまま江戸に戻りますが、そこであの奇想天外な策を思いつきます。幕府に「身分を問わず優秀な者を集めて、浪士隊を結成し、治安維持に努める時である」という建言書を出すのです。

幕府にとっても市中にあぶれた浪士をまとめて監督できるし、自らの手を汚さなくてもいいということで、この意見は見事に通り、募集にあたっては大赦までしてくれるということで、清河は獄中の同志の解放にも成功します。

■愛妻家の一面も

しかしその中には愛妻・蓮の姿はありませんでした。

江戸で事件を起こした時に、妻の蓮もとらわれて清河の居所を聞き出すために激しい拷問を受け、そのままはしかにかかり死んでいたのです。


清河は蓮が囚われたときに妻をおもいやって、「妻がいかに苦労しているかはよくわかっている。どうか自分が成功する日を待っていて欲しい」という詩を読んでいました。蓮の死に落胆した清河は、かつて遊女との結婚に大反対された自分の両親に「わが子のように思って供養を」と頼み込んでいます。

そもそも蓮とは遊郭での酒宴中にであったようです。遊びでばらまいたお金に目もくれない蓮の毅然とした態度に惚れこみ、何度かラブレターを送っています。

その中には「あなたさえ心変わりしなければ自分は絶対見捨てたりしない。しかし、私に嫁ぐと苦労を掛けるかもしれないから、農家や町人に嫁いだほうが安心して暮らせるだろう。よく考えて決断して欲しい」という細やかな一面もみせています。

■幕府を唆し浪士隊結成も…

話は戻ります。1863年、幕府のお墨付きを得て、清河主導で浪士隊が結成。ここに、その後の新撰組メンバーも加入。上洛の将軍を警護するという名目で出発します。


しかし隊列に清河の姿はなく、彼は京都に先回りしていたのです。

そして2月23日、京都に到着した浪士隊の前に姿を現した清河は「京都に来た本当の目的は幕府のためではなく、尊王攘夷のためであり、朝廷に我らの意思を上奏する」とつげて、呆気に取られているうちに隊士たちから誓約書の血判書をもらい、翌日の24日には朝廷に提出するという早業をみせます。
(このあとは歴史好きなら存知のとおり、近藤らが異を唱えて離脱、自分たちで「壬生浪士組」を結成することとなり、のちに新選組になります)。

■清河八郎の最期


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伝通院にある清河八郎の墓

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2月30日には「関東に下り、攘夷を決行せよ」と朝廷から勅諚がくだります。

慌てた幕府も時すでに遅し。3月13日には清河と200人あまりの隊士は江戸へ向かいます。

清河の頭には「5月10日に横浜の外国人居留地を襲撃、そのあと小田原城を占拠し幕府打倒の拠点にする」という構想があったとか。

しかし裏切られた幕府も放置するわけはありません。

清河は4月13日、幕府の見廻組に路上で暗殺されました。享年34歳。そのときは同志の宅からの帰りで、酒に酔っていてなおかつ風邪をひいていたといいます。

このように振り返ると、江戸市中で何度も倒幕活動をしていたのに、江戸市中で酒に酔って一人夜道を歩くなど、あまりに無防備だと思ってしまいますね。


朝廷の勅諚を得た自分を殺すわけがない、という過信があったのでしょうか。自分の理想が正しいと思うばかりに、人心掌握には長けていなかったのかもしれませんね。

しかし34歳で江戸・京都を駆けずり回り、志士を300人も手なずけて朝廷や幕府に働きかけるなど、強固な決意と理想がなければ叶うはずもありません。とても「熱い」武士の一人だったことは確かです。

参考:『新撰組興亡史』

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