太平記英勇伝三:今川治部大輔義元(落合芳幾作)Wikimedia Commonsより
その最期である桶狭間の戦いでの敗北や、後世に作られた「公家大名」「軟弱な武将」というイメージから過小評価されがちですが、実際には政治、軍事、外交すべてにおいて卓越した能力を発揮し、戦国大名としての成功を収めた名将でした。
今回は、義元の生涯を紐解き、彼がなぜ名将と呼ぶのにふさわしい人物なのか、検証してみます。
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■家督継承と内乱の克服
義元は1519(永正16)年、今川氏親の三男として生まれました。一度は仏門に入り、京都の建仁寺や妙心寺で修業を積みましたが、兄の氏輝と異母兄の彦五郎が相次いで早世したため、家督争いに巻き込まれます。
1536(天文5)年、の花倉の乱では、異母兄の玄広恵探と激しく争い、雪斎(太原崇孚)の支援を得て勝利。義元は家督を継ぎ、今川氏の第十一代当主となりました。
この時、彼は武力だけでなく、後北条氏からの支援を引き出し、外交手腕を発揮して内乱を収めました。
■内政改革と領国経営
義元は家督を継いだ後、父・氏親が制定した「仮名目録」に追加法を加え、領国内の秩序を強化しました。この「今川仮名目録」は、法治による統治を志向したもので、戦国大名としての先進的な内政手腕を示しています。また、商業保護政策や交通網の整備、鉱山開発なども進め、領国内の経済を活性化させました。
これらの施策により、義元の治める駿河・遠江の経済力と統治基盤は安定し、領国経営の模範例として他の戦国大名からも注目される存在となりました。
■外交の成功と三国同盟の形成
義元の外交手腕は、武田信玄や北条氏康との甲相駿三国同盟の成立に表れています。
特に、北条氏や武田氏との婚姻関係を通じた外交交渉は、義元の戦略的思考を象徴しています。
■軍事面での活躍
義元は武力を用いても領土を着実に拡大しました。特に、三河国では松平氏(後の徳川家康)を支配下に置き、尾張の織田信秀とも激戦を繰り広げました。
1548(天文17)年の小豆坂の戦いでは、雪斎を総大将とする今川軍が織田軍に大勝利を収め、三河の安定支配を確立しています。また、織田信秀の死後は尾張への進出を加速させ、領国の拡大を着実に進めました。
■桶狭間の戦いと義元の最期
1560(永禄3)年、義元は約2万の大軍を率いて尾張国への侵攻を開始します。彼の軍勢は織田信長の守る砦を次々に攻略し、信長を追い詰めていました。しかし、桶狭間での本陣において、信長軍の奇襲を受け討死します。
この敗北は義元の評価を低下させる要因となりましたが、義元が輿に乗って移動したことや「油断していた」という説は後世の創作であり、信長の奇襲が極めて戦術的に優れていたことが主因とされています。
■義元の評価と後世への影響
義元は「公家趣味」や「軟弱」といったイメージを持たれることが多いものの、これらは戦国時代の価値観や、講談などによる後世の偏った評価によるものです。
公家文化への精通は義元の教養の深さを示し、輿での移動は家格の高さを誇示するためのものでした。
義元の死後、今川氏は急速に衰退し、徳川家康の独立を許しましたが、義元が築いた統治基盤と政策は、戦国大名として、再評価されてしかるべきものです。
参考文献
- 小島広次『今川義元』(1966 人物往来社)
- 小和田哲男 編『今川義元のすべて』(1994 新人物往来社)
- 小和田哲男『今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く』ミネルヴァ日本評伝選〉(2004 ミネルヴァ書房)
- 小和田哲男『戦史ドキュメント 桶狭間の戦い』(2000 学研M文庫)
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