戦国時代、多くの武将たちが活躍し、その生き様は数百年の歳月を越えて人々を魅了しています。

今回はそんな一人である小田部勝成(おたべ/こたべ かつなり)を紹介。
果たしてどんな人物だったのでしょうか。

■人呼んで「乗込大学」

脳を負傷しても死なず!単騎で敵中へ殴り込む勇猛すぎる戦国武将...の画像はこちら >>


敵を蹴散らす「乗込大学」こと小田部勝成(イメージ)

小田部勝成は生没年不詳、陸奥国の戦国大名(二本松城主)である二本松義継(にほんまつ よしつぐ)・二本松義綱(よしつな)の二代に仕えました。

一族は小田部城(現代の福島県本宮市糠沢字小田部)を拠点としていたことから、その地名を苗字としています。

忠功によって大学の官途名を与えられ、小田部大学とも呼ばれました。

大学(大学寮)とは式部省直轄の官僚養成機関ですが、小田部勝成が実際にそのような任務に当たった(朝廷から正式に任官された)わけではありません。あくまで主君によって許された私称(官途名)です。

騎馬戦を得意としてしばしば武勲を立て、時には単騎で敵中へ殴り込んだ豪勇ぶりから「乗込大学」という二つ名で呼ばれました。

同僚には防戦を得意として「不属(ふぞく。敵に屈せず、従わず)の弥平」と呼ばれた石川実光(いしかわ さねみつ)がおり、共に力を合わせて勝利に貢献します。

攻めの小田部(乗込大学)に守りの石川(不属の弥平)は互いを補い合い、相性がよかったのでしょうか。

そんな中、天正13年(1585年)に主君・二本松義継が伊達政宗に殺され(※)、幼くして家督を継いだ二本松義綱も政宗に攻め立てられます。

(※)義継が政宗の父・伊達輝宗を拉致したため、まとめて殺されたのです。


二本松城に立て篭もった二本松主従は、小田部大学らの奮戦もあって、伊達の猛攻を耐え抜きました。

しかし天正14年(1586年)に入ると調略によって内応者が続出。ついに二本松義綱は二本松城を明け渡し、会津の蘆名氏へ身を寄せたのでした。

これをもって、戦国大名としての二本松氏は事実上滅亡したと言えるでしょう。



■「北の関ヶ原」でも活躍

脳を負傷しても死なず!単騎で敵中へ殴り込む勇猛すぎる戦国武将・小田部勝成の武勇伝


慶長出羽合戦の激闘。「長谷堂合戦図屏風」より

さて。二本松氏の滅亡後、小田部大学はすぐに再仕官せず、しばらく浪人しています。

乗込大学ほどの勇士であればどこでも歓迎されたでしょうに、再仕官した記録がありません。

主君を滅ぼした伊達に仕えたくない気持ちは分からなくもありませんが、他の大名にも仕えなかった理由は何でしょうか。

単に二本松家へ義理立てしていたのか、あるいは伊達あたりから他家に対して奉公構(ほうこうがまい)、すなわち「コイツを雇うな」と嫌がらせをされていた可能性も考えられます。

ともあれ永らく浪人した後、慶長3年(1598年)に片倉景綱(かたくら かげつな)の伝手で伊達家へ再仕官。300石で召し抱えられたのでした。


当時は太閤・豊臣秀吉が世を去ったことで世が再び不穏となってきており、伊達家でも勇士を求めていたのが理由でしょう。

慶長5年(1600年)に「北の関ヶ原」とも呼ばれる慶長出羽合戦が勃発すると、小田部大学は伊達家の武将・留守政景(るす まさかげ)に従軍します。

出羽国の最上義光(もがみ よしあき)を救援するべく、戦友である「不属の弥平」こと石川実光と共に上杉景勝の軍勢と戦いました。

この時、小田部大学は赤い琵琶の旗、石川実光は黒い琵琶の旗を掲げていたそうです。

赤と黒の琵琶を見て、上杉方の総大将である直江兼続(なおえ かねつぐ)は嘲り笑って言いました。

「琵琶は弾(ひ)くもの。弾く(退く)とはすなわち退(しりぞ)く意味、敵を見たら逃げ帰るのか!」

これを聞いて小田部大学は、すかさず言い返します。

「琵琶は筐(かたみ。細竹で編んだ籠)に入れればすなわち弾けぬ。もし敵を片見すれば(片目でも視界に入れば)、討つことなく退くこと能(あた)わぬ!」

見事な反論に直江は降参。勇士に対する非礼を潔く詫びた上で、正々堂々と干戈を交えたのでした。

現代の武士道にも通じる、清々しい態度と知的なやりとりに感心してしまいますね。




■脳を負傷!?でも死なない

脳を負傷しても死なず!単騎で敵中へ殴り込む勇猛すぎる戦国武将・小田部勝成の武勇伝


イメージ

そんな乗込大学でしたが、慶長7年(1602年)に重傷を負ってしまいました。3月16日に仙台城下で勃発した御小人騒動(おこびとそうどう)です。

御小人とは農民から徴発された小者を指していました。公共事業や戦時の増員を目的としていたものの、やがて臨時動員が常態化すると、下級武士のような存在になっていきます。

そんな御小人たちが、城下の普請中に暴動を起こし、普請奉行の金森勘平(かなもり かんべい)を射殺してしまいました。最終的には鎮圧されたものの、家臣たちにも被害が及びます。

小田部大学もまた賊徒の銃撃を受けたらしく、脳(!?)と肘(ひじ)を負傷してしまいました。

……小田辺大学勝成八脳ト肘ヲ傷ケラル……

※『貞山公治家記録』巻21・慶長7年(1602年)3月16日条

脳を傷つけられて生きているとも思えませんが、恐らくは頭部を指しているのでしょう。

その後も生き延びた小田部大学は慶長19~20年(1614~1615年)の豊臣征伐(大坂の陣)にも従軍し、武功があったと言います。

ちなみにこの時、小田部大学には小田部茂成(しげなり)という子がいました。通称は小田部主殿(とのも)。

慶長4年(1599年)生まれなので大坂冬の陣時点でまだ16歳。
元服して間もない血気盛んなことで、従軍を願い出るも却下されてしまいます。

諦めきれない茂成は一人で大坂まで駆けつけ、しぶとく従軍を願い出たのでした。

小田部大学は政宗に対して「主殿が軍規に背いたため、腹を切らせてください」と願い出ます。なかなか厳しい父ですね。

しかしこれを聞いた政宗はむしろ茂成の心意気を賞賛し、陣袍(じんぽう。陣羽織)を与えたのでした。

夏の陣にはこれを着て正式に参陣。武功によって500石を与えられ、江戸脇番頭(えどわきばんがしら)を拝命します。

息子の成長ぶりを見届けた小田部大学は、大坂の陣を機に隠居。元和2年(1616年)に隠居料を与えられ、そのまま歴史の表舞台から姿を消したのでした。

■終わりに

今回は伊達政宗に仕えた戦国武将・乗込大学こと小田部勝成について、その生涯をたどってきました。

結構マイナ―だと思いますが、実に勇猛であったようです。


まだまだ知られていない戦国武将がいるので、また発見していきましょう。

※参考文献:

  • 家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典 1』新人物往来社、1987年11月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ