流浪と反逆!室町幕府のラスト将軍・足利義昭の苦難と悲劇に満ちた壮絶人生【中編】
■信長包囲網再び
義昭は全国の大名に書状を送り、信長包囲網の構築に奔走しました。そのなかで、様々な武将と連携を深めていくわけですが、特に上杉謙信との連携は重要でした。
謙信は信長との対立姿勢を鮮明にしており、義昭の呼びかけに応じて武田勝頼や北条氏政との講和を進める動きを見せました。また、毛利水軍は本願寺に対する兵糧補給作戦を成功させるなど、信長の支配力を揺さぶる行動を展開しました。
しかし、信長は次々と反対勢力を撃破していきます。1577年には、義昭が頼りにしていた上杉謙信が急死し、上杉家は後継争い(御館の乱)に陥りました。これにより、信長包囲網は大きな打撃を受け、義昭の影響力も低下していきました。

上杉謙信肖像(上杉神社所蔵)
■鞆幕府の終焉
1582年、信長は本能寺の変で明智光秀によって討たれました。この出来事は義昭にとって千載一遇の機会でしたが、義昭を支持する毛利氏はすぐに行動を起こさず、結果的に義昭が再び京都に戻る機会は失われます。代わりに、信長の後継者として台頭した羽柴秀吉が新たな政治秩序を築いていきました。
信長の死後も義昭は諦めず、秀吉に対しても自らの正統性を示しつつ関係修復を図ります。
1586年、九州を平定しようとする豊臣秀吉の命を受け、毛利輝元が先陣を切って進軍を開始しました。しかし、島津氏の軍勢は非常に精強であり、毛利軍は苦戦を強いられました。
このような状況下、足利義昭は自身の影響力を活かして、和平交渉に動きます。
3月、秀吉が九州へ進軍する途中、義昭の住む鞆の御所近くで義昭と対面しました。この再会は十数年ぶりのもので、秀吉はすでに従一位・関白・太政大臣という地位にあり、義昭をはるかに超える存在となっていました。しかし、義昭と秀吉は贈り物を交換し、酒を酌み交わして親交を深めました。
義昭は、島津義久への和平交渉を粘り強く続け、4月には最終的に島津氏が秀吉との講和に応じる形を取りました。この結果、島津氏の降伏が実現し、秀吉の九州平定は大きく前進したのです。
秀吉の台頭と共に義昭は秀吉との協力関係を築き、最終的に鞆を離れて京都に帰還します。これにより、義昭が築いた鞆幕府は事実上の終焉を迎えます。
■義昭の晩年
京都に戻った義昭は将軍職を辞し、朝廷から准三宮の称号を受けます。これにより、室町幕府は名実ともに終焉を迎えました。その後、義昭は出家し、昌山道休と号して静かな余生を送りました。
晩年の義昭は、秀吉の御伽衆として政治の表舞台を退きつつも、武家社会の伝統や文化を守る立場を担い続けました。また、秀吉からも一定の敬意を払われており、前将軍としての名誉を保ったまま生涯を閉じました。
足利義昭の生涯は、政治的な失敗として語られることが多いですが、彼の生き方には評価されるべき側面も少なくありません。義昭はもともと将軍職に就くべき立場ではなく、出家して僧侶として生きる予定の人物でした。
それが織田信長の協力を得て将軍に就任し、短期間ではあれ室町幕府の再興を果たしたことは、彼の行動力と信念の強さを物語っています。
また、義昭は将軍としての正統性を徹底して守り抜きました。信長に追放されて以降も諦めることなく、全国の大名に書状を送り、自らの存在をアピールし続けたことは、逆境の中での粘り強さの象徴と言えるでしょう。
特に鞆幕府を拠点に信長包囲網を形成し、上杉謙信や毛利輝元といった大名たちと連携を図ろうとした姿勢は、ただの傀儡将軍とは一線を画すものでした。
義昭が将軍として果たした役割には、戦国時代の権力構造において「正統性」という価値観を保持するという重要な意味がありました。彼がいなければ、武家政権の歴史的な連続性はより早く失われていたかもしれません。
いかがでしたでしょうか。足利義昭の生涯から見る壮大な戦国の流れ。
彼の歩みは、日本の武家社会が大きく揺れ動く転換期の象徴そのものであり、その足跡からは、歴史の奥深い重層性と、人間の信念が持つ力を学ぶことができます。
参考
- 桑田忠親『流浪将軍 足利義昭』(1985 講談社)
- 奥野高広『人物叢書 足利義昭』(1996 吉川弘文館)
- 久野雅司 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』(2015 戒光祥出版)
- 久野雅司『中世武士選書40 足利義昭と織田信長 傀儡政権の虚像』(2017 戒光祥出版)
- 黒嶋敏『天下人と二人の将軍:信長と足利義輝・義昭』(2020 平凡社)
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