■敵味方でマーキング

戦国時代を舞台にしたドラマなどを見ていて、多くの人が一度は感じる疑問として戦場で敵と味方をどう区別していたのかということが挙げられると思います。

戦国時代は、合戦ともなれば混戦状態になるのが常だったので、武将たちは何とかしてその中で敵味方を識別しなければなりません。
では、一体どうやっていたのでしょう。

答えは簡単で、それは「印をつける」ことでした。

まず、源平の戦いの頃は、旗の色を紅白に分けることで敵味方を区別していました。

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『源平合戦図屏風』(Wikipediaより)

源氏と平家を旗頭とする勢力が二つに分かれて戦っているわけですから、単純に源氏方を白、そして平家方を赤とするだけで両者を見分けることができたのです。

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■武家の旗印が増えていく

ところが、時代が下るにつれて、旗を二色で分けるだけでは対応できない場面が増えてきました。

特に南北朝から室町時代にかけて政治情勢が複雑になってくると、たとえ同族でも敵味方に別れて戦うケースが増えてきたのです。

そうした戦乱の世では敵味方の識別が命取りになることも多く、何より同士討ちは絶対に避けなければいけません。旗を二色に分ける以外の、分かりやすい識別方法が求められました。

すると、よりわかりやすい目印が求められるようになり、武家の旗印や家紋は急速にその数を増していきます。

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肥後細川家の独占家紋・細川九曜(Wikipediaより)

旗印や家紋は、各家の誇りと伝統を象徴するだけでなく、戦場での識別においても重要な役割を果たしたのです。

例えば同族同士で戦う場合は、片方が旗印を変えるなどして敵味方の区別をつけていました。

■美意識の高まり

とはいえ、まだ問題があります。
戦場では、旗印や家紋の細かい違いを確認するのは困難だということです。

そのため、「○」「✖」「▢」といったシンプルな印が武家たちには好まれました。これなら誰にでもすぐ真似して描けますし、遠目にも確認しやすかったのです。

こうした視認性の高い旗印は、戦闘中の混乱を避け、迅速な指揮命令の伝達を可能にしました。

しかし室町時代末期、いわゆる戦国時代に突入すると、「○」「✖」「▢」のようなシンプルさから少し進化して、武将たちがそれぞれ個性を競うようにして独特の旗印を採用するようになります。

戦のさなかでも、武将たちは美意識を追求・発揮するようになったということなのでしょう。もっとざっくりいえば、さらなるカッコよさが求められるようになったのです。

当時の旗印は武将によって形状や文字・模様などに特徴があり、家紋のほか、武将自身の思想・世界観を反映した言葉などが採用されていました。

とくに有名なのは上杉謙信の「毘」や、武田信玄の「風林火山」、それに永楽通宝をあしらった織田信長の旗印でしょう。

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ご存じ、上杉謙信の「毘」ののぼり

こうした旗印に採用された印は、大将から足軽に至るまで同じ意匠のものが用いられました。

■足軽も同じ印をつけていた

そして足軽は、印のついた旗指物を所持して合戦に臨んでいました。

戦国時代の、万単位の大軍による大規模な集団戦において、圧倒的な数を誇っていたのが足軽に代表される歩兵です。


当時は、彼らの働きが戦の勝敗に直結すると言っても過言ではありませんでした。

こうした状況で同士討ちを避けるため、当世具足の背中や腰に自軍の目印を備え付ける旗指物が採用されたのです。

ちなみに、戦場で何らかの理由で旗指物が抜け落ちた場合は、合言葉によって敵味方の区別をしたとか。

やはり、「敵味方の区別のために印をつける」と一言で言っても、実践するとなるとかなりの苦労と工夫があったようです。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

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