■織田信長という存在

戦国武将といえばこの人、織田信長。その驚異的な勢力拡大と経済政策について、改めて探ってみましょう。




実はお人好しだった織田信長!?最初から最後まで周囲に裏切られ続けた信長の人生
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今川義元を破った桶狭間の戦いで、信長の名は近隣諸国に知れ渡り、戦国大名として広く認知されるようになりました。

今川義元は、今では歴史を語る上では「やられ役」ポジションとして有名になっているところがあります。しかし、当時としてはかなりの有力大名で、その義元が討たれたというのは衝撃的な出来事でした。

信長のこの勝利は、彼がただの地方の一大名ではなく、天下統一を目指す大志を持つ戦国大名であることを示すものでした。

やはり驚異的だった戦国武将・織田信長の「超人強度」!全盛期の石高はなんと日本の約半分!?


ご存じ、織田信長(Wikipediaより)

勢いに乗った信長は、天下統一にむけてひた走り、近畿、中部、北陸、東海のほぼ全域と中国の東半分を手中におさめるまで、勢力範囲を拡大します。

彼の戦術と外交の巧妙さが、この広大な領土を支配下に収める要因となりました。



■信長の「超人強度」は…

上述の通り、織田信長の存在の大きさは誰でも知っていますね。しかしここで少し冷静に考えてみて、彼の全盛期(本能寺の変の直前)の石高はどれくらいだったのでしょうか。

つまり、当時の彼の勢力をあえて数値化するとしたら、どのくらいになるのでしょう。キン肉マンの「超人強度」のようなものです。

答えは、約八〇〇万石です。

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これは、他の有力戦国武将とくらべても圧倒的な数字で、なんと日本の約半分に及ぶものでした。


毛利氏や武田氏のような有力戦国武将でさえも、せいぜい百数十万石だったのですから、信長の勢力がいかに広範囲に及んでいたかがわかるでしょう。

■奏功した経済政策

また信長の統治は、単に領土の拡大だけでなく、その地域の経済発展にも寄与していました。

彼は、当時最先端の国際貿易都市でもあった堺や、各地の金山・銀山などを支配下におさめていました。これにより、彼は経済的にも強固な基盤を築くことができました。

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岐阜駅前の織田信長像

また、信長は領内の各地に交通網を整備し、商業の活性化を図るなど、経済政策にも積極的に取り組んでいます。これにより、彼の支配地域は経済的にも発展を遂げました。

さらに商業の自由化政策をおしすすめることで、貨幣経済を発展させたのも大きな功績です。資金源をおさえ、経済の仕組みを変えたことで、信長は財政面からも強固な体制を作り上げたのです。

彼はまた、商人や職人を保護し、その活動を奨励することで地域の経済を活性化させました。

信長の存在感の大きさといのは単なるイメージだけではありません。本能寺の変で倒れる直前まで、彼は桁外れの力をもった戦国武将だったといえるでしょう。

こういったことを踏まえて考えると、彼が本能寺の変で突然命を落としたことが当時どれほど衝撃的な出来事だったかが分かりますし、彼の地盤を引き継ぐことがその後の天下統一のためにどれほど重要なことだったかも理解できるでしょう。


参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

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