世界史でも日本史でも、歴史を見れば―もちろん現代でも―戦争は、始めるよりも終えるほうが難しいのが普通です。
それでは、戦争が当たり前だった戦国時代、大名たちはどうやって合戦を終わらせたのでしょうか。
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総力戦の世界戦争を経てきた現代の私たちから見れば、「相手を滅ぼすまで戦うんじゃないの?」と考えてしまうところですが、相手を完全に倒してしまい、土地を荒らして農民まで死に絶えたのではその領土を得る意味はありません。
それに、総力戦で互いに国力が削られてしまうと、別の敵が現れて漁夫の利をさらわれる可能性が高いです。

『天目山勝頼討死図』歌川国綱画 Wikipediaより
よって戦国時代の場合、ある程度戦って優劣が決まると双方から使者が出て、領土の新しい境界線を決めたり、今後の相互不可侵や安全保障での合意をとりつけて停戦となるのが普通でした。
特に領土争いが理由の場合は、「どちらが正しいか」という戦いではなく「あの土地が欲しい」という実利的な目的によって始まった戦いということになります。
その場合は、条件さえ折り合えば停戦にこぎつけるのはそう難しいことではありませんでした。
さて、停戦合意がなされると、誓紙を交わすことになります。
誓紙とは「起請文(きしょうもん)」のことです。
■起請文による手続き
もともと、国境を接する戦国大名たちは、軍事同盟の締結や合戦など大名同士の外交関係が顕著になるに従い、こうした起請文を取り交わすことが少なくありませんでした。
軍事同盟の締結や合戦の和睦に際して、お互いの信頼を確認するために双方で起請文を交わしていたのです。
例えば、有名なものに天正壬午起請文があります。
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻により甲斐の武田氏は滅亡しました。

武田勝頼像
そして同年6月、本能寺の変で織田信長が横死すると、武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生します。
さらに同年8月に、甲斐では徳川家康と相模国の北条氏が対峙する事態になりました。
甲斐に在国していた武田遺臣の多くは動向を注視していましたが、8月12日に黒駒の合戦で徳川勢が北条方を撃破すると、家康に臣従することを決めます。
その際に、数名から数十名のグループごとに起請文を提出し、家康への忠誠を誓ったとされています。
■切り札としての人質交換
天正壬午起請文は、この時に提出された起請文を編集したもので、終末期の武田家臣団を知る史料として活用されています。
戦国時代は、こうした起請文なども活用しながら停戦の申し合わせを行っていたのです。
とはいえ、時代は乱世。起請文などと言ってもしょせん紙切れに過ぎないと言ってしまえばそれまでです。相手がいつ裏切るかは分かりません。
そこで切り札となるのは、子供を結婚させたり、お互いの子を養子に出すなどの縁組です。起請文の取り交わしとあわせて、こうしたことが同時に行われることも珍しくありませんでした。

徳川家康像。家康も、今川家へ人質として送られた経緯がある
要するに人質交換です。
ただ、こうした人質の価値も絶対的ではなく、見捨てられてしまうこともままあったようです。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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