徳川家康が江戸で開府した17世紀初め、江戸の人口は十数万人だったと伝えられています。それが数十年で増加し、百万人規模の大都市に成長しました。
東海道五十三次 日本橋
同時に増えたのが犯罪です。地方からの流入者が困窮し、犯罪が急増しました。江戸の町は窃盗、スリ、ひったくり、強盗、放火など、あらゆる犯罪が横行する都市でもありました。
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地方では、徒党を組んで押し込み強盗を働く盗賊が横行しました。警察力が脆弱なため、元盗賊を雇って盗賊を撃退する村まであったといいます。
こうした有象無象のワルが跋扈する中で、頭角を現したのが浜島庄兵衛でした。
■日本左衛門VS火付盗賊改方
徳川吉宗治世下の1720年頃、尾張藩の飛脚の子として生まれた浜島庄兵衛は、若くして大盗賊の頭領となり、日本左衛門と呼ばれるようになります。

日本左衛門「豊国漫画図絵」
日本左衛門一味のスタイルは、集団での押し込み強盗でした。彼らは狙った邸宅に数十人規模で押し入り、提灯を灯して屋内を物色するという手口で大暴れしました。
近隣の家や逃走経路には見張りを立てるという念の入れようだったと伝えられています。
1746年、日本左衛門は掛川藩の商家を襲撃して1000両を奪いました。

火付盗賊改方といえば池波正太郎の『鬼平犯科帳』が有名ですが、この役職の誕生は徳川幕府創世記の慶長・元和の時代まで遡ります。
当時は、戦国時代の余波が残っており、滅亡した大名家の残党が新たな職に就けず困窮していました。
こうした者たちが盗賊として跋扈する事態になり、幕府は慶長16年に三人の足軽大将に部隊を与え、常陸や下野に派遣したのです。
この武断的な対応により多くの賊が討ち取られ、捕らえられた賊は全て斬首されました。
■殺人ライセンス
火付盗賊改方は放火犯や盗賊を取り締まる機関で、当時の警察組織の精鋭でした。
こうして取り締まりが厳しくなり包囲網が狭まっていくなか、1747年、ついに日本左衛門は逃走の末に自首し江戸へ護送されました。
彼は29歳で処刑され、その後、この規模を超える大盗賊団は出現しませんでした。
江戸の治安を守るためには、町奉行所や火付盗賊改方のような組織が絶対に必要だったと言えるでしょう。

長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡
火付盗賊改方は江戸市内だけでなく関東一円を活動の場所とし、賊の殲滅を任務としていました。
時代が下ると、彼らも捕物を中心とするようになりましたが、特徴的だったのは、犯人を現場で斬殺する権利を持ち続けていたことです。
江戸時代の古いイメージで、横暴な武士が簡単に庶民を惨殺していたようないわゆる「斬り捨て御免」がありますが、あれは実際にはそうそうあることではありませんでした。
しかし火付盗賊改方は違っており、彼ら明確に、いわば殺人ライセンスを持っていたのです。
凶悪犯に対して一発威嚇射撃をするだけでも大きく騒がれる今の時代からは、ちょっと想像がつかないですね。しかしとにかく、彼らの存在こそが江戸の治安を維持したのです。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む 雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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