【前編】でご紹介した三王朝交替説は支持者も少なくありません。
天皇の「万世一系」をくつがえす衝撃の学説!古代の天皇家に王朝交代はあったのか?【前編】
古王朝の歴代天皇の王宮と御陵が大和の三輪山の麓にあるので「三輪王朝」と呼び、中王朝の歴代天皇の王宮と御陵が河内に多いので「河内王朝」と呼ぶ専門家・研究者もいます。
また古王朝を「崇神王朝」、中王朝を「応神王朝」あるいは「仁徳王朝」とする説もあります。仁徳王朝とする説では、応神天皇と仁徳天皇がもともとは同一の人格だったという考えです。

仁徳天皇陵のお堀
この三王朝交替説を支持する専門家・研究者は、古王朝(三輪王朝)から中王朝(河内王朝)へと王朝交替があったとしますが、中王朝の本拠地がどこかによってさらに説が分かれます。
【前編】でご紹介した騎馬民族征服説のように、東北アジアから朝鮮半島を経由して渡来したとする説もあれば、本拠地は河内であるとする説もあるのです。
また、古王朝(三輪王朝)から中王朝(河内王朝)への王朝交替を認めず、両王朝は連続した政権だったという説も存在します。
共通しているのは、王朝交替説によれば歴代天皇は万世一系ではなく、王朝は古王朝から始まり、2回交替しているという点です。つまり、最後の新王朝(継体王朝)こそが、その後の天皇の祖先と考えられるわけですね。
もちろん、『日本書紀』にはそんなことは記されていません。それでは、継体天皇がどんな経緯で即位したのか見てみましょう。
■継体天皇即位の経緯
第25代の武烈天皇は子どもをもうけることなく崩御してしまったので、大伴金村らの群臣が後継者を協議しました。
最初に選ばれたのは第14代の仲哀天皇の五世の孫(五世代あとの孫)・倭彦王でしたが、迎えにきた群臣らの威儀を整えた列を見て、倭彦王は逃げてしまいました。
次に選ばれたのが、継体天皇こと男大迹王です。

福井市・足羽山の継体天皇像(Wikipediaより)
男大迹王の父・彦主人王は応神天皇の子孫で近江国(滋賀県)にいました。そこで越の国(福井県)の振媛を娶り、男大迹王をもうけました。
彦主人王が亡くなったあと、振媛は男大迹王を連れて郷里に帰っていたので、金村らは越の国まで迎えに行きました。
しかし、男大迹王は「自分は天子としての才能がなく、力不足である」といって辞退してしまいます。あわてた金村らが必死に懇願し、ようやく男大迹王が承諾して即位する運びとなったのです。
継体天皇は「応神天皇五世の孫」とされています。しかし、継体天皇にはいくつかの謎があり、皇孫であることを疑う専門家・研究者も少なくありません。
中でも一番の謎というか、疑惑を招いていたのが継体天皇の系譜です。
■新事実の発見
どういうことかというと、記紀は「応神天皇五世の孫」と記していますが、父である彦主人王と祖先の応神天皇との間の系譜が欠けているのです。
そのため、継体天皇の系譜には信憑性がなく、継体新王朝説によると継体天皇は越の国の豪族であり、武力により皇位を奪ったと見ています。
ところがその後、新たな事実が明らかになりました。
鎌倉時代の『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』に引用された文献に『上宮記』というものがあり、これは『日本書紀』よりも古いのですが、なんと応神天皇から継体天皇までの系譜がすべて記されていることが判明したのです。
また近年、継体天皇は前政権の支配機構も、さらに前方後円墳という埋葬方法も継承していることなどから、継体天皇による皇位簒奪はなかった、つまり王朝交替はなかったとする説が有力になってきています。
ということで、現在では神武天皇からの万世一系を唱える学説はほとんどないですが、一方で崇神天皇以降の王朝交替にも否定的な説が有力視されているのです。
参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia
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