吉原の誕生は、女郎屋を営んでいた庄司甚右衛門(しょうじじんえもん)が遊廓の設置を幕府に願い出たことがきっかけと言われています。といっても、一度は断られたそう。
それでも諦めずに、再度陳述書を提出したとのこと。陳述書では、京都や大坂など繁栄している土地には必ず遊廓があるし、遊女が一箇所にまとまっている方が取り締まりやすいなどメリットをアピール。

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■幕府からの条件

それに対して、幕府は幾つかの条件を出します。

1、吉原遊廓以外での営業の禁止・遊女の外出の禁止

2、遊客の居続けの禁止

3、遊女に派手な着物を着せることの禁止

4、派手な建物の禁止

5、身元不明者が来たら幕府に届け出ること。

これらの条件をのんで、無事に元和3年(1617年)、吉原の遊廓をつくることが許可されました。

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■吉原の移転

場所は、現在の東京都中央区日本橋人形町のあたり。2丁(約220m)四方が与えられた土地の広さで、イネ科の多年草である葦(よし)が茂っていた湿地のため、葦原と命名。その後、縁起をかついで「吉」原と変わったのではないかと言われています。この吉原の総名主に任じられたのは、庄司甚右衛門。最初は昼間だけの営業で、元和4年(1618年)に遊女屋17軒、揚屋(現在のラブホテルのようなところ)24軒で営業開始。

ところが江戸の開発が進むとともに、遊廓が江戸の真ん中にあるのはやはり不適当だということになり、明暦2年(1656年)移転を命じられます。移転先は、浅草の浅草寺裏手にある千束村と、辺鄙な場所でした。
その分、以前より土地は5割増し、さらに夜間営業も許可されたそう。明暦3年(1657年)千束村に完成した遊廓が、新吉原と呼ばれています。

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明治時代、吉原の遊女

■新吉原の路線変更

アクセスは不便にはなったものの、夜間営業もできるようになったことで、新吉原は繁栄していき、上級武士や豪商たちが豪快にお金を使ったそう。しかし武士階級が窮乏化して町人も力をつけてきただけでなく、吉原で遊ぶにはかなりお金がかかるということで、以前のような勢いがなくなってきたのです。そして、下級武士と庶民の吉原といわれるように、庶民路線にシフトチェンジ。時代変われば、客層も変わる。吉原も、試行錯誤を繰り返しながらの営業だったのですね。

参考文献:お江戸吉原草紙 田中夏織, 江戸の売春 永井義男

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