これまで、「江戸幕末の人斬り・岡田以蔵」、そして「会津藩の西郷姉妹」の辞世の句を紹介しましたが、今回はこの人物。

■江戸時代の人気戯作者 十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)

十返舎一九といえば、江戸時代後期に活躍した人気戯作者。


享和期から文政期にかけて執筆した「東海道中膝栗毛」は大ヒットしました。ご存じ弥次さん喜多さんの珍道中の物語です。当時の作家はみな作家活動だけでは食べていけず、どんな人気作家も薬屋などの副業をしていましたが、十返舎一九は大ヒット作を生み出したために、日本で初めて文筆活動のみで生活していける職業作家となったと言われています。

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今回はそんな十返舎一九のハイセンスな辞世の句をご紹介します。

「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙とともに 灰さようなら」

どうでしょうか。間違いなく、大物ですね。

「おいとまにせん(おいとまするとしよう)」と「線香」をかけたり、「線香」と関連のある「煙」「灰」などのワードを上手く使って「はい、さようなら」とさっぱり別れを告げる、技巧と諧謔のマッチした見事な辞世の句。

ハイ、サヨウナラ!とけらけら笑いながら天にのぼる十返舎一九の姿が目に浮かぶようです。

■十返舎一九の人生

さて、十返舎一九の人生を軽くおさらいしましょう。明和2年(1765)、駿河国(静岡県)の町奉行同心生まれ。そういえば「東海道中膝栗毛」弥次さん喜多さんも駿河の生まれですね。十代で江戸に出て武家に奉公しますが上手くいかず、ふらふらしたのちに30歳で有力版元(出版社)かつ地本問屋の蔦谷重三郎のもとに転がり込みます。
有名浮世絵師の歌麿などとも交流があったかもしれません。

文章だけでなく絵も上手く、筆耕(文字の清書)まで一人でできた一九は蔦重に大変重宝がられ、すでに人気作家だった山東京伝の挿絵などを手伝います。やがて蔦重に「おめえも書いてみな」と勧められ、寛政7年(1795)31歳で黄表紙「心学時計草」を出版してデビュー。あれよあれよという間に大ベストセラー作家になったのです。

現代でもゲラゲラ笑える面白い戯作を多く世に残した一九は、やはりユーモアにあふれた人物だったようで、天保2年(1831)に亡くなり火葬された際、一九が自分の体に仕込んでおいた花火に火がついて、どっかーんと見事に打ちあがったという逸話まであります。真実か否かは定かではありませんが、これが本当なら、「『煙とともに 灰さようなら』って、そういう事だったのか!」と親族や参列者はさぞやびっくりしたことでしょう。最後の最後に一本取られた、とその場は笑いに包まれたのではないでしょうか。

ちなみに一九が作家デビューしたのが寛政の改革が終わった頃で、一九が亡くなったのが天保の改革が始まった頃。時期が少しでもずれていれば、一九は取り締まりを受けて好きなように黄表紙や戯作を書けなかった事でしょう。ちょうどなんの取締りもなく筆の向くままに戯作を書けた一九は、江戸で一番ラッキーな作家に違いありません。恐るべし、十返舎一九!

画像出典元 White BG

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