きちの人生については多くの小説や映画などが発表されていますが、真偽が混同されて伝わり、いまだ真相は分かりません。今回は「唐人お吉」について記述した最初期の文献、昭和5年出版の村松春水「実話 唐人お吉」に沿い、彼女の数奇で哀切な一生を紐解きます。
天保12年、きちは下田・坂下町の船大工の家に生まれました。7歳から養母に芸を仕込まれたきちは声が良く、特に十八番の新内節「明烏」を唄わせれば下田で右に出るものはなし。安政元年、14歳になる頃には「新内お吉」「明烏のお吉」と呼ばれる有名芸妓になっていました。
同年3月、日本がアメリカと日米和親条約を結び、きちの暮らす下田が開港されると、彼女の怒涛の人生が幕を開きます。
同年11月、開港されたばかりの町に大地震と津波が襲来。下田は壊滅状態、きちは家も家族も失い、絶望の淵に追いやられます。そんな時、彼女に光を投げかけたのは幼なじみの少年、鶴松でした。
しかし不幸は続き、翌安政2年には養母が病死。きちは15歳で天涯孤独になり、ふたたび芸妓になります。深い悲しみを抱えつつも、気丈に働くきち。玉のような美しさと健気さで、下田の役人の宴席には必ず呼ばれる人気芸妓に成長します。そして一方では、幼なじみの鶴松に恩金の借りを完済。2人は互いの想いを打ち明け、恋仲になりました。
安政3年7月、アメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスが日米修好通商条約を締結すべく、下田に着任。一介の芸妓には関係がないように思えるこの事が、きちの人生を大きく変えました。
翌安政4年、下田で一番の芸妓だったきちは、17歳にしてアメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスの相手に抜擢されます。ハリスが用意したのは支度金25両、1年の給金120両の大金。

こうしてきちは、恋人鶴松に別れを告げ、ハリスの待つ米国領事館・玉泉寺に向かったのです。下田から少し離れた柿崎村の玉泉寺は、コウモリやネズミの棲む、それはひどい寺でした。当時は流行歌の替え歌が流行っており、お吉が作ったとされる歌がこちら。
「行こか柿崎 帰ろか下田 思い惑うよ間戸が浜」
間戸が浜とは、柿崎領事館と下田のちょうど中間の地名。決して喜んでハリスの元に行った訳ではないお吉は、領事館へ向かう道中に悲しげにこの歌を歌ったのでした。
後編はこちらから
下田芸者 斎藤きち(唐人お吉)アイキャッチ画像:wikipediaより(着色加工:筆者)、参考文献:村松春水「実話 唐人お吉」国会図書館蔵
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