前編では、西郷隆盛と大久保利通が薩摩藩内で敵対する権力グループに属していたものの、友情は繋がっていたという話をしました。

どこで違った、二人の道。
西郷隆盛と大久保利通の友情と決別 [前編]

さて、その後は光と影のように互いを必要とし、協力して明治維新を成し遂げた二人でしたが、二度目の決別は、明治に入ってからでした。

■欧米視察に行った大久保、日本に残った西郷

明治4年、ようやく政府が船出にこぎつけ、これから地盤を固めようという時に大久保は岩倉遣欧使節の一員として、欧米へ渡ります。

同時期、西郷は政治家になるという野心もなく、鹿児島に帰って隠居しようと考えていました。しかし政府の要人の大半が岩倉遣欧使節として欧米に渡る事となり、西郷は隠居どころか、残されたわずかな人数で留守政府の舵取りをしなくてはならなくなりました。

富国強兵のために欧米視察は必須だったとはいえ、居残り組にしてみればたまらない心境だった事でしょう。当時の明治政府はまだ盤石ではなく、農民の一揆は江戸時代より増え、また仕事を無くした不平士族が今にも反乱を起こしそうな雰囲気がありました。その中で重要な政治家たちが大勢で欧米視察に行くという政策は、西郷たちにしてみればあまりにものんきすぎる内容でした。怒った西郷は、彼らの留守中に新しい政策は行わないという約束を破り、征韓論を唱えます。

どこで違った、二人の道。西郷隆盛と大久保利通の友情と決別 [...の画像はこちら >>
楊洲斎周延「征韓論之図 」出典元:国会図書館

西郷の考えた征韓論は、まず西郷自身が使節となって、鎖国中の朝鮮へ行って話し合いをして開国させ、ゆくゆくは清国と朝鮮と日本のアジア三国同盟を結び、欧米列強に対抗するというものでした。もし朝鮮との話し合いが上手くいかずに西郷が殺害されれば、日本中でくすぶっている不平士族を出兵し、武力で朝鮮を開国させる事も考えていました。そうすれば士族にも仕事ができ、それはそれで一石二鳥だと考えていたのです。そして実際に、遣欧使節が帰国する直前には、西郷の朝鮮行きは留守政府の中でほぼ決定していました。


しかし帰ってきた遣欧使節の人々はそれを聞いてびっくり。「今そんな風に朝鮮に開国を強いて上手くいくはずがない。親玉の清国やロシア、ひいては欧米列強が黙ってはいない。必ず日本は袋叩きにあい、滅ぼされる」と猛反対し、西郷の征韓論は取り下げられます。

世界を見てきた大久保と、国を守っていた西郷の思想は、すでに相容れないほどかけ離れてしまっていたのです。

■それぞれの最期

西郷が下野して数年経った明治10年、西南戦争が勃発。西郷隆盛は大久保が指揮する明治政府軍に追い詰められ、その生涯を終えます。大久保は自ら軍を指揮しながらも、西郷の死を聞いた時には号泣したといいます。

翌年明治11年5月には、東京紀尾井坂にて大久保利通暗殺。銃殺された大久保の服のポケットからは、西郷の手紙が出てきたとか、出ていないとか・・・。二人の友情の真実は今となっては当の二人にしか分からない事ですが、傍目には決別したように見えても、幼い頃からの絆はただの一度も切れる事はなかったのかもしれません。

【参考文献】

  • 東京都歴史教育委員会「一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新」
  • 晋遊舎「西郷隆盛完全ガイド」
画像:近代日本人の肖像西郷隆盛・大久保利通

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ