江戸時代の日本は鎖国体制をとり、中国・朝鮮・オランダなどの限られた国とだけ貿易を行い、それ以外の国とは交流を断ちました。貿易は長崎の出島のみと決められ、交流が許可されている国の人でさえ、日本国内を自由に歩き回ることは一切できませんでした。
歌川芳虎「和蘭陀人」British Museum蔵
そんな鎖国下の江戸に「江戸の出島」と呼ばれた阿蘭陀宿(おらんだやど)がありました。阿蘭陀宿とは、オランダ商館長が江戸を訪れた際に滞在した宿泊所。海外との交流が厳しく取り締まられていましたが、ここではオランダ人と日本人が比較的自由に交流することができたのです。
■お江戸日本橋にあるのに長崎屋?
長崎にあった出島のオランダ商館長のカピタンは、定期的に将軍に謁見するために、献上物を持参して参府することが定められていました。
長崎からやってくるカピタン一行が江戸滞在の際に利用したのが、阿蘭陀宿の「長崎屋」です。長崎屋は日本橋本石町三丁目(現在の東京都中央区日本橋室町4丁目)にありました。普段は薬種問屋ですが、副業として宿泊所を営んでおり、一行が参府する春だけ阿蘭陀宿として利用されていました。

葛飾北斎「画本東都遊 3巻」
鎖国下の江戸では異国人はやはり珍しかったようで、一行が滞在する時期になると江戸っ子たちがこぞって見物に訪れました。その様子は葛飾北斎の江戸名所絵本『画本東都遊』の中の『長崎屋図』で見ることができます。宿の窓からチラッとだけ見えるオランダ人を、老若男女たくさんの江戸っ子が見上げていますね。
宿の中には多くの舶来品が運び込まれました。あのシーボルトも宿泊したことがあり、彼は小型のピアノを宿の2階で弾いたそう。
■異国サロンとしての長崎屋に通った、あの人たち
好奇心旺盛な徳川吉宗が将軍職になると、それまで禁止されていた洋書(キリスト教関係以外)の輸入が解禁されました。
そこで流行ったのがオランダの学問である蘭学。蘭学を学ぶ人は長崎だけでなく江戸にもいて、彼らはオランダの学問を吸収するために長崎屋を訪問していました。オランダ人と面会した人物の中にはあの平賀源内や杉田玄白がいました。

解体新書 4巻
関東でサツマイモを広めたことで有名な蘭学者、青木昆陽は長崎屋に通い詰めて、日蘭単語集『和蘭文訳』を完成させました。蘭学の祖と呼ばれる杉田玄白は、知人が長崎屋に宿泊していたオランダ人から譲り受けた医学書『ターヘル・アナトミア』を前野良沢らと翻訳して、『解体新書』を完成させました。
オランダ人と江戸の蘭学者の数少ない交流の場でもあった長崎屋は、カピタン一行の宿泊所としてだけでなく鎖国下での異国サロンであり、当時の学問や文化に大きな影響を与える場所でもあったのですね。
画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション,British Museum
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