中宮・彰子(しょうし・あきこ)は、清少納言の仕えた皇后・定子亡き後、一条天皇の唯一の正妃となった女性です。藤原道長の長女で、『源氏物語』の作者として知られる紫式部や、歌人として名高い赤染衛門・和泉式部などが女房として仕えていたことでも有名ですね。
画像出典:いらすとや
天皇に入内したときはまだ12歳と幼かったものの、時の権力者であった父・道長の後ろ楯もあり栄華を極めた、平安時代のプリンセス。しかし意外にも彼女の人物像や、その栄華の後の晩年については、あまり知られていないのではないでしょうか?
■権力者の父の意に反し、亡き皇后定子の子を次期天皇に推した彰子
彰子の夫である一条天皇が退位した後、天皇には彼の従兄弟にあたり、「小倉百人一首」に「三条院」として歌が取り上げられている三条天皇が即位しました。
外戚政治を目論んでいた藤原道長はその際、母の皇后定子が亡くなりその外戚も既に没落して後ろ楯のなくなっていた第一皇子・敦康(あつやす)親王ではなく、彰子の子で自分の孫である第二皇子・敦成(あつひら)親王を当然の如く新皇太子に立てました。

ところがこれに反対したのが、なんと中宮彰子でした。実は母である定子亡き後の敦康親王を、手元で母親代わりとなって養育していたのは彰子だったのです。それに加え、一条天皇も定子の忘れ形見である敦康親王の立太子を望んでいました。
にもかかわらず、道長はなかばゴリ押しで敦成親王を皇太子に定めてしまいます。
更に道長は、次女で彰子の妹にあたる妍子(けんし・きよこ)を中宮に上げた三条天皇にも圧力をかけて退位に追い込み、わずか8歳の敦成親王を後一条天皇として即位させてしまいます。
これにより摂政となり、天皇の外戚としての権力を不動のものとした道長は、三条天皇が自身の退位と交換条件で立太子させた敦明(あつあきら)親王もゴリ押しで退かせ、後一条天皇の弟で自分の孫の敦良(あつなが)親王を皇太子とします。
まさに「やりたい放題」の父を、娘の彰子も苦々しく思っていたであろうことが、当時の『権記』『栄華物語』などに残されています。
■栄華の後の彰子の後半生って?
「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思へば」
こんな歌まで詠むほど栄華を極めた彰子の父・藤原道長でしたが、1028(万寿4)年に亡くなりました。
その後、彰子はどうなったのでしょうか?
父・道長が亡くなった頃、彰子は既に先々代の天皇の后・太皇太后となった後に出家し、上東門院と号していました。
彼女が亡くなったのは1074(承保元)年、87歳でした。30代・40代で亡くなる人も決して少なくなく、長寿の祝いを40歳から行っていた当時としては、かなりのご長寿でした。
時代は既に彰子の曾孫・白河天皇の御代となっていました。父・道長の後を継いだ頼道・教通の兄弟も彰子と前後して亡くなり、ほどなくして藤原氏による摂関政治は院政へ取って代わられていきました。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan