■庶民は旅行禁止の江戸時代、旅に出るための抜け道とは
学校では修学旅行、会社では社員旅行、家庭では家族旅行、一匹狼のアウトローには気ままな一人旅と、現代の日本では、観光や旅行は庶民にとって身近な娯楽として親しまれています。
では、江戸時代の旅行事情はどうだったのでしょうか?
江戸時代では、庶民が旅をすることは各藩の法律によって禁止されていたのですが、これには抜け道がありました。
■全国規模で大ブームとなったお蔭参り
江戸時代後期、1800年代に入ると、庶民にとっての旅行は身近なものになりました。きっかけの一つは、お蔭参りと呼ばれる伊勢参拝が全国規模でブームとなった集団参拝。貧しい百姓でもお陰参りに繰り出す群衆の流れに乗ってしまえば、着の身着のまま無一文でも伊勢にまで辿り着く事が出来ました。女性の一人旅も珍しくなく、子供や妊婦も混じっていたというのは驚きです。
慶安3年に始まったお蔭参りは、ほぼ60年周期でご利益が高まるありがたい「お蔭年」に盛んになりました。「不治の病が治った」「店が繁盛した」など伊勢神宮に参拝して幸福になったという話も広まっていたため、観光目的だけでは無く噂を本気で信じて伊勢を目指す人も多かったようです。
※実際のブームとなる時期は60年周期では無くその間隔は約10年、20年、50年と規則性はありませんでした。
このイベントが発生すると沿道の商家などは、参拝者に無料で配る食べ物や草鞋を用意して支援したため、お金の無い参拝者はこれに与りました。このような気前の良い大盤振る舞いを見ると、参詣者だけではなく周囲の人々も巻き込んだお祭りのような感覚だったのだと思われます。
伊勢への参拝者の数は多い時で年間総人口の1割以上となり、1日だけで十五万人弱の人が伊勢に訪れたという記録も残っています。
■お伊勢さんまでの旅路、東海道ってどれくらいの長さ?
初代将軍家康の時代、幕府は東海道のルート上に53箇所の宿(しゅく)と呼ばれる休憩場所を設置しました(※大坂まで伸ばすと57)。この休憩場所は宿駅とも呼ばれますが、宿場と呼んだ方が馴染み深いかと思います。
東海道は江戸から尾張を通って京都まで続き、その長さは126里6町で、メートル法に換算すると約494㎞。整備などにより時代によって度々ルートが変わるため、この数字は資料によって異なります。
当時使われていた長さの単位間の関係と換算値はこちらの通り。
1里=36町=約4㎞(3927メートル)
1町=約109メートル
宿場と宿場との距離は様々で、歩いて半日程掛かる16㎞以上離れている場所もあれば、2㎞弱ほどの走って数分の場所もありました。
江戸時代の旅人は1日約30~40㎞も歩いたと言われています。宿場間の距離は平均して3~4㎞程しか離れていないため、極端に遠い宿場や途中に難所が無い限りは、江戸時代の人達と比べて足腰の弱い現代人であっても余裕で辿り着けそうな距離でした。
■将軍の身長で東海道の長さを測ってみた
江戸時代後期の成人男性の平均身長は155cmと言われています。歴代の将軍の身長は、初代家康:159cm、二代目秀忠:160cm、三代目家光:157cm、四代目家綱:158cm、五代目綱吉:124cm、六代目家宣:156cm、七代目家継:135cm、八代目吉宗:156cm、九代目家重:151cm、十代目家治:154cm、十一代目家斉:157cm、十二代目家慶:154cm、十三代目家定:145cm、十四代目家茂:152cm。
大樹寺にある位牌が、十五代目慶喜を除く各将軍の身長に合わせて作られていると言われています。そのため徳川慶喜の身長データは残されていません。
十五代目慶喜を除く徳川歴代将軍14人の身長合計は約21.18メートルです。
この14人を”気をつけ”の姿勢の状態で縄で縛り、横に並べてみます。それを1セットとして東海道(京~江戸間)に並べてみた場合。2万3千324セットの将軍が必要となります。その数32万6千536人。徒歩で移動するには途方も無い距離に感じられます。
昔の人は東海道約494kmを1日辺り約10時間、15日ほど掛けて踏破していたようです。帰路を考えると2倍の距離になり、現代人にはとても真似できない荒行に思えてしまいます。
学校では修学旅行、会社では社員旅行、家庭では家族旅行、一匹狼のアウトローには気ままな一人旅と、現代の日本では、観光や旅行は庶民にとって身近な娯楽として親しまれています。
では、江戸時代の旅行事情はどうだったのでしょうか?
江戸時代では、庶民が旅をすることは各藩の法律によって禁止されていたのですが、これには抜け道がありました。
湯治は病や怪我を癒すための治療行為として認められ、伊勢神宮は天皇家が祀る、国を代表する神社であり、国民なら誰しも参拝する権利があると考えられていました。これらの名目で届けを出せば、お役所は認めざるを得なかったため、徹底して機能していなかった法律だと言えます。
■全国規模で大ブームとなったお蔭参り
江戸時代後期、1800年代に入ると、庶民にとっての旅行は身近なものになりました。きっかけの一つは、お蔭参りと呼ばれる伊勢参拝が全国規模でブームとなった集団参拝。貧しい百姓でもお陰参りに繰り出す群衆の流れに乗ってしまえば、着の身着のまま無一文でも伊勢にまで辿り着く事が出来ました。女性の一人旅も珍しくなく、子供や妊婦も混じっていたというのは驚きです。
慶安3年に始まったお蔭参りは、ほぼ60年周期でご利益が高まるありがたい「お蔭年」に盛んになりました。「不治の病が治った」「店が繁盛した」など伊勢神宮に参拝して幸福になったという話も広まっていたため、観光目的だけでは無く噂を本気で信じて伊勢を目指す人も多かったようです。
※実際のブームとなる時期は60年周期では無くその間隔は約10年、20年、50年と規則性はありませんでした。
このイベントが発生すると沿道の商家などは、参拝者に無料で配る食べ物や草鞋を用意して支援したため、お金の無い参拝者はこれに与りました。このような気前の良い大盤振る舞いを見ると、参詣者だけではなく周囲の人々も巻き込んだお祭りのような感覚だったのだと思われます。
伊勢への参拝者の数は多い時で年間総人口の1割以上となり、1日だけで十五万人弱の人が伊勢に訪れたという記録も残っています。
■お伊勢さんまでの旅路、東海道ってどれくらいの長さ?
初代将軍家康の時代、幕府は東海道のルート上に53箇所の宿(しゅく)と呼ばれる休憩場所を設置しました(※大坂まで伸ばすと57)。この休憩場所は宿駅とも呼ばれますが、宿場と呼んだ方が馴染み深いかと思います。
東海道は江戸から尾張を通って京都まで続き、その長さは126里6町で、メートル法に換算すると約494㎞。整備などにより時代によって度々ルートが変わるため、この数字は資料によって異なります。
当時使われていた長さの単位間の関係と換算値はこちらの通り。
1里=36町=約4㎞(3927メートル)
1町=約109メートル
宿場と宿場との距離は様々で、歩いて半日程掛かる16㎞以上離れている場所もあれば、2㎞弱ほどの走って数分の場所もありました。
江戸時代の旅人は1日約30~40㎞も歩いたと言われています。宿場間の距離は平均して3~4㎞程しか離れていないため、極端に遠い宿場や途中に難所が無い限りは、江戸時代の人達と比べて足腰の弱い現代人であっても余裕で辿り着けそうな距離でした。
■将軍の身長で東海道の長さを測ってみた
江戸時代後期の成人男性の平均身長は155cmと言われています。歴代の将軍の身長は、初代家康:159cm、二代目秀忠:160cm、三代目家光:157cm、四代目家綱:158cm、五代目綱吉:124cm、六代目家宣:156cm、七代目家継:135cm、八代目吉宗:156cm、九代目家重:151cm、十代目家治:154cm、十一代目家斉:157cm、十二代目家慶:154cm、十三代目家定:145cm、十四代目家茂:152cm。
大樹寺にある位牌が、十五代目慶喜を除く各将軍の身長に合わせて作られていると言われています。そのため徳川慶喜の身長データは残されていません。
十五代目慶喜を除く徳川歴代将軍14人の身長合計は約21.18メートルです。
この14人を”気をつけ”の姿勢の状態で縄で縛り、横に並べてみます。それを1セットとして東海道(京~江戸間)に並べてみた場合。2万3千324セットの将軍が必要となります。その数32万6千536人。徒歩で移動するには途方も無い距離に感じられます。
昔の人は東海道約494kmを1日辺り約10時間、15日ほど掛けて踏破していたようです。帰路を考えると2倍の距離になり、現代人にはとても真似できない荒行に思えてしまいます。
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