■足袋のルーツ「襪」と「単皮」
現在の足袋は小鉤(こはぜ)と呼ばれる金具を、受け糸と呼ばれる糸に引っ掛けて留めるようになっています。小鉤の登場は江戸の元禄時代ごろ。当時は動物の骨などを使用、金具を使うようになったのは明治以降からです。
「足袋」と書く歴史は意外と曖昧で、文献に認められるのは11世紀『宇治拾遺物語』から。平安時代以前の貴族が履いていたのは、「襪(しとうず)」と呼ばれる革製で靴下のようにすっぽりと足を入れて紐で結ぶものでした。
貴族の履き物は今でも神官が履く、下沓(したぐつ)と呼ばれる厚底のスリッパのようなものでしたので、股が割れている必要が無かったのですが、草履を履いて外出する必要が生まれると、指の股が作られていったといいます。
沓を履く貴族

したうづの表記(和漢三才図会より)
襪を履いていた公家に対して、武家が主に着用したのが『単皮 (たんび)』。平安時代の『倭名抄』には、鹿皮でつくった半靴の単皮の記述が残っています。半靴というのは足首からの浅い靴なので、地下足袋やブーツに似ていますね。「たび」と言う言葉は、その「たんび」が後に変化したという説があります。
革は日本では手に入りにくいように思われますが、戦国時代までは南蛮から輸入していたので、足袋と言えば革製でした。それが転換するのは鎖国政策が始まった頃。
革製の足袋は何色だったかというと、本来の色そのままの黄色であったり、染める場合は紫や赤が多かったようです。

単皮の表記(和漢三才図会より)
■足袋を人前で履くのは失礼?
しかし足袋を闇雲に履いていいわけではなく、人前で足袋を履くのは失礼という考え方がありました。武士は『足袋御免』といって、主君の許可を得てはじめて着用が許されました。
この足袋御免も細かな決まりがあり、江戸時代になると「50歳以上の高齢で、10月1日から2月20日の間」と定められていました。同じく貴族も室内では素足でしたが、高齢者や高貴な人は履くことを許されていたようです。
ちなみに農民の場合も庄屋や名主の許可が必要でした。町人にはこの制度は適用されませんでしたが、裕福な商家の主や風流人以外の平民は、浮世絵などを見てもほぼ素足なので、足袋は気軽な履き物ではなかったようです。
足袋の色は、八代将軍徳川吉宗が鷹狩りで履いたことがきっかけで紺が流行。武士の間では礼装の際に白足袋を用いてそれ以外は紺や黒、江戸町人も紺を用いることで定着したようです。
いずれにしても足袋は狩猟や防寒のために履くもので日常的に着用するものではなく、「人前では素足が基本」という考えが江戸後期まであったようです。

裸足姿の足利義教
ただし、茶人や僧侶、花人、神官、能楽師などは常に白足袋を履いていました(狂言師は革時代の名残で黄色を履く)。
いかがでしたか?足袋の色の変遷や、人前で足袋を履くのは失礼という考えがあったことに驚きですね。まさに日本は裸足文化だったということですね。
参考文献:ブリタニカ国語百科事典、江戸のきものと衣生活、男の着物大全
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