みなさんは混浴温泉に入ったことはありますか?現在、混浴温泉の数は数百程度にまで減少しているそうですが、江戸時代は混浴が当たり前の時代で、江戸時代から増え始めた銭湯においても、混浴が一般的でした。
歌川芳幾「競細腰雪柳風呂」
江戸時代の頃は男女ともに、異性に裸を晒すことは今よりも寛容であったために混浴が成り立っていたのだろうと思いますが、なぜ混浴が減少の一途をたどることになったのでしょうか?それは、江戸幕府や明治政府の取り締まり、そして欧米からの厳しい批判の目によるところが大きいです。
江戸時代、異性に裸を晒すことが今よりもオープンだったと言っても、もちろん全く気にならなかったわけではありません。江戸時代、春画が大変な人気であったことからもわかるように、異性の裸に対しては性的な感情も抱くわけで、そうなると銭湯で痴漢行為に及ぶ輩も出てきます。
さらに湯女(ゆな)と呼ばれる、垢すりや体を洗うサービスを提供する女性を抱えた銭湯も増加していきました。湯女のサービスは徐々にエスカレートしていき、銭湯が売春の場と化していきます。

月岡芳年「全盛四季夏 根津庄やしき大松楼」
また、銭湯をデートスポットとして使用するカップルもいたようです。当時の銭湯はとても暗かったので、銭湯の中でイチャついたりもしていたのでしょう。痴漢行為があったくらいですから、その現場を覗き見しようとする人がいたことも容易に想像がつきます。
野外、銭湯、出会茶屋?江戸時代はどのような場所で愛を営んでいたのでしょう?
そんな銭湯の状況を風紀の乱れと判断し、1791年に混浴禁止令が出されます。しかし禁止令が出されても混浴が無くなることはありませんでした。その後、1841年に水野忠邦が禁止令を出したりと幾度となく混浴禁止令が出されますが、ニュースメディアが発達した現代とは違い、地方にまで規制を広めることなども難しい江戸時代ですから、混浴根絶は容易ではなかったようです。
禁止令によって混浴ではない銭湯も徐々に増えていったことも確かですが、そこにはまた違った問題も出てきていたようです。
江戸時代の銭湯は混浴の時代も…それでも江戸の女子が銭湯に通う理由
1853年に黒船で日本に来航したペリー提督は、日本遠征記の中で日本人の混浴に関しても触れています。「日本人は道徳心が優れているにもかかわらず、男女が裸体で混浴しているところを見ると、その道徳心に疑いを挟まざるを得ない」…と、かなりショッキングだった様子です。

そんな西洋からの批判的な目もあり、明治時代になってからも混浴禁止令は幾度となく出され、明治末期には混浴の場はかなり減ったようです。明治時代に入って西洋の文化が一気に日本に流れ込み、日本人の、異性の裸に対しての考えに変化があったことも、混浴が減少した要因のひとつであったと考えられます。
数は多くはありませんが、現在でも混浴の温泉は存在します。庶民の暮らしに根付いた文化を変えるということは、一筋縄では行かないものなのですね。
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