謙信女性説を初めて唱えたのは、サンカ研究でも知られる八切止夫(やぎりとめお)。もちろん、現在は検討すらされていませんが、その根拠をみていくとまんざらありえないこともないと思えてくるのは不思議です。
上杉謙信女性説を初めて唱えた八切止夫
根拠として挙げられるのは、まず謙信の女遊びをした記録がほとんどないということ。謙信は自らを毘沙門天の化身と称し「生涯不犯」という姿勢を貫いており、婚姻をすることはありませんでした。
後にこれが一因となって謙信の死後越後は再び乱れるのですが、いずれにせよ謙信の周りには、まったくといっていいほど女性の影が全く見えてこないのです。
もちろん、このころは男色も当たり前のように行われていた時代ですので、同性愛者だったとも、早くから出家し仏門に入っていたため、女性を意図的に遠ざけていたとも考えられますが、現在伝わっている謙信に関する記述には女性の関しての記事はほとんどありません。
江戸時代以前の男色は決して「快楽のため」だけではない?恒例の儀式や同志の契りを交わす意味も大きかった
また謙信は、第四次川中島や七尾城の戦いにおいて、戦闘中にもかかわらず毎月10日前後に腹痛を起こし、兵を引いていたという記録もあり、これは女性の月経のためではないかとも指摘されています。
■上杉謙信 着用の着物が女性的?
さらに、織田信長は謙信に源氏物語屏風を贈っていますが、屏風を贈る行為は、当時の慣習では女性に向けてなされることが一般的でした。また、謙信は恋愛をテーマにした物語である『源氏物語』を好んだと伝えられています。
現在、山形県にある上杉神社には、謙信着用と伝えらえている着物が、信長が贈ったものも含めて複数残されていますが、そのデザインが女性的なものであるということも指摘されています。
肖像画についても謎が残ります。謙信の生きていた時期と近い時期に作成された肖像画は多くが僧形の形をとっており、髭もないフェミニンな印象を受けるものが多くあります。

上杉謙信
また、上杉謙信の出陣をテーマに唄った瞽女唄(※)の歌詞には、「寅年寅月寅日に生まれたまんとら様(政虎?)は、城山さまのおん為に赤槍立ててご出陣。男も及ばぬ大力無双」と唄い、寅年寅月寅日生まれで政虎と名乗った謙信を女性として讃えているような下りがあります。
そして、一般的には謙信の死因は脳卒中とされていますが、『当代記』という文献には大虫でなくなったと記述されています。この大虫とは、子宮に関する病や婦人病を指すものだとされています。
外国人の客観的な立場で書かれた記述もあります。それは、スペイン国王・フェリペ2世に派遣されたゴンザレスという人物が国王への提出した報告書で、その中に「上杉景勝は叔母が開発した佐渡鉱山をたくさん持っている」と述べています。この「叔母」というのが、誤解による書き間違えではないのならば、謙信のことを指しているとは考えられないでしょうか。
このようにみていくと、上杉謙信は女性であった可能性が全くないとは言えなくなるのだから、不思議ですね!
※目の不自由な女性芸人が歌う歌
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