浅井長政と織田信長の妹・お市の間に産まれた茶々は、のちに淀殿となり、秀吉の跡取りである秀頼を産むことになりますが、実は茶々は浅井長政の実子ではなく、お市の連れ子だったという説があります。

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『伝淀殿画像』(奈良県立美術館所蔵)

確かに、長政は茶々の後に産まれた娘に「お初」という名前を付けていますが、これは本来、初子という意味で、長女に着けるべき名前です。


三重県の射和文庫に保管されている浅井家の公式な歴史書である『浅井三代記』。

これは、戦国時代に近江国小谷(おだに)城を本拠として江北を支配した浅井亮政(すけまさ)・久政・長政3代の興亡を記したもので、各時代について詳細に記述があるのですが、なぜか茶々の誕生の箇所のみが記載されていません。

豊臣秀吉の側室・淀殿(茶々)は浅井長政の実子ではなかった?お市の方、連れ子説を検証する


浅井長政像(長浜城歴史博物館蔵)

また、京都大学には、浅井長政が美濃の武将に尾張守である織田信長を紹介してほしいと依頼している書簡が保存されています。この書簡の存在が意味するところは、信長が尾張守に就任するまで二人の間に面識がなかったということになります。

信長が尾張守に就任するのが1566年7月17日。信長の妹・お市が長政の元に輿入れしたのが1567(もしくは1568)年とされており、1569年に茶々が産まれたことになっています。一応辻褄はあいますが、二人が知り合ってから茶々の誕生まで異例のスピードではないでしょうか。

さらに、浅井家にお市が輿入れした時点でお市は20代であり、当時の常識では珍しい高齢での結婚となります。このことから、お市は一度誰かと婚姻しており、腹の中に茶々がいたまま離縁して長政のところへ輿入れしたと考えることもできます。

こうして考えると、この仮説には一見説得力があるようにも見えます。

ですが、その一方で、もしも茶々が妊娠していたのならば、その時点で織田信長が子どもを引き取るのではないのかと考える立場もあり、このような仮説は、敵方であった茶々の威厳を貶めるために江戸幕府が広めたデマだと捉える見方もあります。

茶々が長政の実子だったかどうかは、今となってははっきりわかりませんが、少なくとも後に秀吉の側室として秀頼を産み、その後見として一時代に権勢を誇ったのはまぎれのない事実です。


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