1853年にペリーが浦賀に来航すると、日本は翌年にアメリカと日米和親条約を結び、200年以上続いた鎖国を止めて、開国することになります。
1858年には安政の五か国条約がアメリカ、イギリス、ロシア、フランス、オランダのそれぞれと結ばれ、日本国内の外国人の居留と、彼らの信仰の自由が認められました。
五か国条約の締結後の1859年に長崎港が開港されます。長崎には大浦の海岸に外国人居留地が設けられ、外国人商人が続々と進出しました。あのトーマス・グラバーもこの地に自宅を建て、現在はグラバー園として有名になっています。
日本の開国後、ローマ法王から日本での布教と潜伏キリシタンの発見を任されたパリ外国宣教会は、殉教史上で有名な長崎に天主堂を建てるため、フューレ神父を長崎に派遣しました。
新たにプチジャン神父も派遣され、着工から1年で大浦の居留地に天主堂は完成されました。これが国宝にして、この度、世界遺産に登録された大浦天主堂です。
正式名称は「日本二十六聖人殉教者聖堂」。その名の通り、西坂で殉教した二十六聖人に捧げられた教会です。
表向きは居留地で暮らす外国人のための教会ですが、教会の正面には何故か「天主堂」と漢字三文字が書かれていました。これは潜伏キリシタンを探し出したいというプチジャン神父の意向によるものです。
天主堂が完成すると、西洋の珍しい建物を見るために大勢の日本人が集まり、人々はそれを「ふらんす寺」と呼びました。
■世界宗教史上の奇跡!「信徒発見」の舞台は大浦天主堂

天主堂の献堂式から1ヶ月が経った1865年3月17日の昼下がり。
その中の1人の女性がプチジャン神父に言いました。
「私どもは、全部あなた様と同じ心を持っています。サンタ・マリアの御像はどこ?」
彼らは浦上村の潜伏キリシタンだったのです。この彼らの信仰の告白こそが、世界宗教史上の奇跡とも呼ばれる「信徒発見」です。
プチジャン神父に案内され、聖母像を見た信者達は
「本当にサンタ・マリアさまだ!御子イエスさまを抱いてらっしゃる!」
と、喜んで言いました。
ちなみに、この時に彼らが見た聖母像は、現在も大浦天主堂右奥の祭壇に置かれているので、訪れた際はぜひ見てみてください。
■浦上教徒弾圧事件、そして信仰の自由
信仰を告白した浦上の信徒達は、その後、堂々とキリスト教の信仰を表明。檀那寺に「自分たちはキリスト教を信仰しているので、寺とは縁を切りたい」と申し入れたのです。
幕府による禁教令が続く中でのこの申し入れは、幕府の政策に背くことです。幕府はキリシタンと見なした人々を捕らえて棄教させ、釈放しますが、ほとんどの人が棄教を取り消しました。

政権が幕府から明治政府に手に移っても、禁教は続きました。
神道を国教とすることを定めた政府は、なかなか棄教しない浦上村のキリシタン約3,394名を日本各地に配流することを決定します。これが「浦上教徒弾圧事件」と呼ばれる検挙で、浦上のキリシタンはこの配流を「旅」と呼んでいます。配流先での拷問や重労働で約600名が亡くなりました。
これを聞いた欧米諸国は日本に猛抗議をします。ちょうどその頃、不平等条約を改正するために欧米を訪問していた岩倉使節団は、訪問先で信仰の自由を求めるように抗議と非難を受けました。信仰の自由を認めなければ外交は進まないと判断した政府は、ついに禁教令を解きます。禁教令が出されて260年以上が経っていました。
キリスト教の解禁後、五島、外海、天草など各地の信徒と神父の手によって、教会が建てられます。
キリスト教の伝来、繁栄、禁教と潜伏、そして復活という歴史を経て建てれた教会。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を訪れる際はそんな歴史を知ると、より一層、意義のある旅になるかもしれません。
国宝 大浦天主堂
大浦天主堂
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan