サケやマスなどの魚は、川で卵が孵化し、海で成長したのち、産卵のためにまた生まれた川へ帰ってくる性質があります。魚のこのような性質を母川回帰(ぼせんかいき)性といっています。


サケの母川回帰性を発見したのは、なんと日本人。それも、江戸時代の武士です。彼の名前は「青砥武平次(あおとぶへいじ)」。越後国村上藩の藩士でした。

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サケの回帰性を発見し、世界で初めてサケの養殖に成功した青砥武平次(wikipediaより)

新潟県村上市を流れる三面川(みおもてがわ)という川があります。江戸時代、村上藩にとってこの川から獲れるサケは大切な収入源でした。ところが江戸後期ごろになると、乱獲などにより、年々不漁となりました。当時はサケの生態も分かっておらず、途方にくれるしかありませんでした。

そこで名乗りをあげたのが、武平次。長年サケの観察をしていた彼は、「サケが産まれた川に戻ってくる」という習性に気がついており、その習性を利用したサケの養殖を行ったのです。

まず、サケが遡上する三面川に分流を設け、そこにサケの産卵に適した場所に蔦や柴で柵を造ります。すると、サケが産卵のために本流に進もうとしても、それが阻止されてしまうため、その場で産卵せざるを得なくなってしまいます。
これは「「種川(たねがわ)の制」といわれました。

こうして村上藩では30年に及ぶ川の大工事が行なわれました。その結果、導入前には多くても200両から300両だった漁獲高が、導入後は1,000両を越えるまでになりました。増殖事業は見事成功し、村上藩はサケの恵みで豊かになったのです。

今でもサケをさばく際、村上ではお腹を全て切らず、中ほどの一部を残すようになっています。それは「大切なサケを切腹させてはならない」という、この地ならではの風習と伝えられています。

さて、気になる武平次のその後です。村上藩に工事を進言し、大成功を収めたわけですから、さぞ大出世しただろうとおもいがちですが、実は武平次、工事が完成する6年前の天明8年、76歳で急逝してしまいます。

武平次の意志はその後も後進たちに引き継がれ、さまざまな研究が重ねられ、技術がとりいれられた結果、明治17年には鮭の遡上数が73万7378尾を数えるようになりました。これは単一河川では日本最高記録だそうです。

参考:竹内均著 川と日本人 田舎をめぐる謎

青砥武平次(あおとぶへいじ)

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