住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に衝撃を受けたアイドルの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

「先日、『MUSIC FAIR』(フジテレビ系)で、フミヤ(藤井郁弥)さんが『Song for U.S.A.』(’86年)と『ギザギザハートの子守唄』(’83年)を歌っているのを見たのですが、デビュー当時とキーが変わっておらず、声のハリもそのまま。“声フェチ”の私としては、感動するしかありませんでした!」

そう話すのは、フリーアナウンサーの魚住りえさん(49)。’80年代は“音楽好き”として過ごしたという。

なかでも衝撃を受けたのはチェッカーズだった。親にせがんで『絶対チェッカーズ!!』『もっと!チェッカーズ』(ともに’84年)などLP盤のアルバムを買ってもらった。『CHECKERS in TAN TANたぬき』(’85年)も映画館で鑑賞。

「『チェッカーズSONG FOR U.S.A.』(’86年)は、安全地帯の玉置浩二さんの映画と同時上映で、お得感もありました(笑)」

一方で、3歳から続けていたピアノは16歳でやめてしまった。

「7歳上の姉は、のちに音楽大学を首席で卒業し、ベルギーに留学するほどのレベルだったので、実力差は圧倒的。コンクールで入賞するようなこともあったのですが、私が何時間もかけて練習するような曲を、才能があるコはあっという間に弾きこなしてしまう。母によく『女のコでも手に職を持って、自立して生きていきなさい』と言われていたこともあり、“ピアノでは食べていけない”と冷静に判断できたんです」

■ドキドキの上京・山手線に乗ったら“フミヤさんに会えるかも”

だが、幼いころから音楽と真剣に向き合ってきたがゆえに、言葉を音符に、声を楽器に見立てることができた。

「それで高校時代は放送部に。『うる星やつら』(’81~’86年・フジテレビ系)や『ルパン三世』(’71年~・日本テレビ系)、『ときめきトゥナイト』(’82~’83年・日本テレビ系)などのアニメが好きだったから、声優を目指した時期もあったんです」

そんな憧れを胸に放送部で活躍し、高校3年時にはNHK杯全国高校放送コンテストに出場。

「もう、上京する喜びでいっぱいで。東京の人はみんなオシャレで芸能人みたいだし、田舎出身で東京のスケール感がわからないものだから、山手線に乗れば“もしかしたらフミヤさんに会えるかも”なんて、真剣に探してみたりしました」

コンテスト会場であったNHK放送センターのある渋谷から、部活の顧問の先生に連れられて原宿まで歩いて移動。

「(ビート)たけしさんのキャラクターグッズがどうしても欲しくて、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(’85~’96年・日本テレビ系)のショップに行きました。その後、竹下通りを歩いていると、偶然、フミヤさんが『笑っていいとも!』(’82~’14年・フジテレビ系)に出演したときの生写真を見つけて、即購入。“地元に帰って自慢しよう”って思ったり」

コンテストでは朗読部門で約5,000人中の3位に輝き、自信を得た魚住さん。大学卒業後も声の仕事に携わりたいと、難関を突破して日本テレビのアナウンサーになった。

そして、’13年にはそれまでの経験を生かした「魚住式スピーチメソッド」のスクールを開講。声にまつわる仕事を続けている。

「この仕事を始めたときから、フミヤさんに会うことを夢のひとつとして頑張ってきました。あるラジオ番組のスタッフ経由でサインをいただいたことはあるんですが、まだお会いしたことはないんです。このまま一生、憧れの存在のままなんでしょうね」