住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に刺激を受けたアーティストの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

「私と同時期にデビューしたレベッカは、曲調、ボーカルのNOKKOちゃんのファッション、ダンスがすごく都会的でおしゃれ。ガテン系やヤンキー系のファンが多く、無骨なロックの私とは対極にありましたが、すごく気になる存在だし、刺激を受けました。’85年のジョイントコンサート以来、“いつかまた一緒のステージに立ちたい”ってずっと思っていたんです」

こう語るのは、デビュー38年目に突入したばかりの、中村あゆみさん(55)。

いまだ現役で走り続けているが、’84年のデビュー直前までは歌手志望ではなく、六本木でバブル景気を謳歌している高校生だったと振り返る。

「3歳のときに両親が離婚して、5歳で父が再婚。後妻さんが怒ると、父からもかぶせて怒られていたから“誰も私の味方がいない。私の居場所はない”って感じていたんです」

そんな思いもあり、高校進学を機に、大阪から福岡へ住む実母の元に転がり込んだ。

実母は博多で複数の高級クラブを経営していて、中村さんにはクラブを継ぐか、歌手になってほしいと考えていた。

「音楽家の平尾昌晃さんと知り合いだった母が、私を紹介したところ、『預かるよ』と言ってくださったんです」

だが、代名詞ともいえるハスキーボイスが、当時はコンプレックスだったと中村さん。

「この声は生まれつき。10代のときは今よりもっとハスキーで、しゃべり続けていると声が出なくなってしまうし、好きではなかったですね。人と話をするのも避けていたくらい」

それなのに、歌の勉強をするため上京することになり、戸惑いはなかったのだろうか。

「福岡では、実母は温かく迎え入れてくれたし、義理の父も甘々で、お金も愛情もあったのですが、それでもどこか心の中で“何か違う。私の場所じゃない”って感じていたんです。それで高校を中退して、上京することに」

■上京したものの仕送りが途絶え勤労学生に…

16歳で東京に出て、六本木にあった平尾邸で住込み生活を始めたが、やはり覚悟が足りなかった。

「人が多く出入りするし、いつも誰かがいる環境になじめなくて。上京して2~3カ月後には、段ボール箱を1つ持ち、飛び出してしまいました」

シブがき隊少年隊のメンバーらと同じ定時制高校に通い、その近くのアパートで一人暮らしを始めたという。

「6畳一間に1畳ほどの台所で、家賃は3万8,000円くらい。でも、私には初めて“居場所”と思えて、まさにパラダイス。サーファーの彼氏もできました」

そのころ、義父の勤め先が倒産し、仕送りも途絶え、日中は赤坂の貴金属店で働き始めた。

「母の高級クラブの、東京のお客さんの奥さまを紹介してもらったりして、営業成績はすごくよかったんです。だから、慰安旅行のときに年齢詐称がバレてしまっても、社長は見逃してくれました」

貯金が増え、定時制高校には毛皮とハイヒール姿で登校し、放課後は毎日、六本木に繰り出すように。ちょうどバブル景気の頂点へと向かう右肩上がりの時代で、六本木は別世界だったという。

「六本木交差点の近くに、焼き肉店、クラブ、スナック、サパークラブのようなお店が入ったビルがあって、いつも出入りしていました。

たまに瀬里奈やキャンティといった高級レストランに連れていってもらうこともあって、食後は必ずディスコに。昭和の男性は“カッコつけマン”が多くて、女のコをお姫さまのように扱ってくれました。だから、遊びに行っても、お金を使うことはないし、帰るときは誰かしらタクシー代を渡してくれるんです」

■スカウトされても家に電話が無い。住所を渡すと……

そんな夜の街で大手芸能事務所のスタッフと知り合い、「あなた、顔と声のギャップがあっておもしろい。うちの事務所じゃ無理だけど、知り合いを紹介するよ」と連絡先を聞かれることも。

「だけど家に電話なんてなかったから、住所だけ伝えていたんです。するとある日、ドアに名前と電話番号が書かれた紙が貼ってあって。じつはそれが今の事務所のマネージャーなんですが、当時はあまり気にも留めていなかったですね」

ちょうどそのころ、泥棒の被害に遭う。アパートに帰ると枕の上に足跡があり、生活費として置いてあった現金がなくなっていたのだ。怖くなり、公衆電話へと走る中村さんが思わず手に取っていたのは、その紙だった。

「ほかに頼れる人が思いつかなくて……。それで指定されたスナックへ行くと、『泥棒のことはさておき』と、音楽プロデューサーの高橋研さんを紹介されたんです。

その場で杏里さんの『悲しみがとまらない』(’83年)など2~3曲を歌うと、高橋さんが『あなたの曲は絶対に僕がやりたい』と言ってくれて。あとはデビューまでのレールに乗せられた感じです」

コンプレックスだった声を、希少価値が高いという意味で「君の声はヤンバルクイナのようだ」と言ってくれた。

「“この声で生きていく”って覚悟ができました」

■周りのビルから、落ちてきそうなほど人が覗いていたレベッカとの野音公演

半年後の’84年9月に『MIDNIGHT KIDS』でデビュー。翌年、『翼の折れたエンジェル』が大ブレイクした。

同時期に日本の音楽シーンを席巻していたのが、レベッカだ。

「『フレンズ』を聴いたときは“来たな”って思いました。NOKKOちゃんの突き上げるようなボーカルが魅力的で、名曲ですよね」

そのレベッカと、ジョイントコンサートをする機会に恵まれたのが’85年の夏。

「日比谷の野音(野外音楽堂)が満杯になり、周りのビルからもみんなのぞいていて、落ちてくるんじゃないかと思うくらい。これをきっかけに、毎年8月31日をAYUMIDAYとして、単独ライブを10年続けました」

いつかまた一緒のステージに立ちたい。そんな夢を抱いていたが、なかなか機会に恵まれずーー。

「3年前にやっと、BSの番組で共演することができました。久しぶりに会ったNOKKOちゃんからは『お互い大人になったねえ。

子どもも大きくなったんだね』って。それで『また、一緒にやりたいね!』って言うと『いいね!』って答えてくれたんです」

コロナ禍で疲れ切っているママたちを元気にするため、中村さんは、現役ママアーティストが集結するライブ『ママホリ2021』(品川ステラボール)を企画。今年の12月11日に開催予定だ。

「真っ先にNOKKOちゃんに声をかけたら、快諾してもらえました。きっと、あのころのような最高のステージになるはず!」

編集部おすすめ