伸びやかで、透明感のある歌声が、夜空に染み入るように、神宮の杜に響き渡っていた。

8月24日、東京・国立競技場で執り行われた東京パラリンピック開会式。

式序盤、日本国旗の掲揚とともに行われた国歌独唱。その大役を務めたのが、武蔵野音大2年で、生まれつき全盲のシンガー・ソングライター、佐藤ひらりさん(20)。淡いピンク色のドレスに身を包み、両手でマイクを握りしめ、真っすぐ前を向いて歌い上げた。

「珍しく、すっごく緊張しました。国旗を運ぶ自衛隊の人たちの『イチ、ニー、イチ、ニー』っていう号令の声が遠くからだんだん聞こえてきて。それが、よけいに緊張感を増幅するんですよー」

大舞台に立った感想を尋ねると、ひらりさんはこう言って、あどけなさの残る顔に、無邪気な笑みを浮かべてみせた。

まだ二十歳。だが、聴衆を前にして歌うキャリアは、すでに15年に及ぶ。小学4年生のときには、自らが作詞作曲した曲のCDもリリースした。

早熟な彼女の活動を支え続けているのが、母・絵美さん(47)だ。わが子の目に重い障害があると医師から告げられた絵美さんは、生まれて間もないひらりさんに向かって、こう語りかけた。

「ごめんね、でも絶対守るからね」

その日から20年。

「ずっと守ってもらって、すっかり頼りきりになりましたー」とおどける娘に、母は「ほっんとだよー」と笑顔でツッコミを入れる。声を上げて笑い合う母娘の表情に、悲愴感は一片もない。

しかし、彼女たちの前に壁があったのも事実だ。ことあるごとに「全盲の子には無理」「無謀すぎる」とやゆされ、言外に反対されたことも一度や二度ではない。それでも母娘は、障害なんてものともせず、周囲の無理解を笑い飛ばし、歩みを止めなかった。目標を1つずつクリアし、いくつもの大きなステージに登り続けた。

そんな母娘にとっても、この夜は特別な、長年待ち焦がれた夢の舞台だった。

「もう何年も前から、母も私も、パラリンピックでの国歌の独唱が夢でした。小池都知事や丸川大臣にお会いする機会があったときも『国歌、歌いたいんです!』ってアピールしてました」

積極的に夢を公にし、突き進むのが母娘の流儀。 絵美さんも言う。

「もう、あっちでもこっちでも『これやりたい、あれやりたい』って言いふらすんです。そうすると『だったら手を貸しましょう』っていう人が現れてくれる、そういうものなんですよ」

■保育園で1本指で美空ひばりをピアノ演奏。

老人ホームで歌った『東京キッド』が転機に

01年5月28日、ひらりさんは新潟県三条市で生まれた。このとき絵美さん27歳、ひらりさんの父は1つ上の28歳だった。

「明け方、タクシーで病院に行ったらドバーッと、破水ではなく出血して緊急帝王切開に。生まれてきたひらりは、仮死状態でした」

手術を終えたばかりの母を残し、ひらりさんは県下でもっとも大きな総合病院に救急搬送された。そこで、一命は取り留めたものの、重い障害があることが判明する。翌日、絵美さんは医師からこう告げられたという。

「視神経低形成のため、お子さんはこの先も、目が見えるようになることはないでしょう」

その言葉を、絵美さんはすぐにはのみ込めなかった。

「ショックというより、『なんで!?』という思いが強かったです。もう意味がわからなかった。ただ、産む前から『どんな子だろうと絶対育ててみせる!』と、勝手に思い込んでましたから。なんとか前を向けたと思います」

2週間後。退院した絵美さんはすぐ愛娘のもとに。

そして、先述のとおり、初対面のわが子に頭を下げると、気持ちを切り替えた。

「『この先、私は何したらいいんだ?』ってことばかり考えました」

ひらりさんは2歳になるころまで、入退院を繰り返した。

「入院中もジメジメと落ち込みたくないから、病室におもちゃをたくさん持ち込んで。『目が見えないってことは、この子、耳はいいんじゃない?』って、これも勝手な思い込みですけど。おもちゃの楽器、子供用のマラカスや太鼓、タンバリンなんかを、見えなくても探せるように、ひらりが手を伸ばせば届くところに並べてました」

ひらりさんが2歳になるころ、絵美さん夫婦は離婚。以降は母娘2人だけの生活に。

「見えないからこそ、ひらりには普通の子と同じようになんでもさせたい、そう思ってました。何より生活のため働かないと。でも、保育園が見つからないんです」

市内10カ所以上の保育園を回ったが「目の見えない子は受け入れられない」と断られ続けた。途方に暮れ「何度、泣いたかわからない」と絵美さん。わらにもすがる思いで駆け込んだ市の相談窓口ではこんなことまで言われてしまう。

「目が不自由な子なんだから、母親のあなたがもっと愛情を注いであげないと。

家で2人、仲よくしていなさいよ」

その言葉に「打ちのめされるどころか、逆に闘志が湧いた」と、絵美さんは笑って振り返った。

「『なんでそんなこと、言われなきゃならないのよ!』って。メラメラ火がついた感じ。くっそー、絶対、なんとかしてやるって」

当たって砕けろとばかり、手当たり次第に動いた。保育士向け勉強会に、無理やり参加したことも。

「そこで知り合った先生のいる保育園に、ダメもとで遊びに行って。そのときはもう、いい子にしてるの疲れてしまって。ほかの子みたいにお行儀よくしなくていいやって、ひらりと2人、泥まみれになって遊んでたんです。そうしたら『え、目が見えない子なのに、そんな大ざっぱな感じでいいの?』って驚かれて。『だったら、うちに来る?』って言ってもらえたんです」

やっと入れた保育園で、ひらりさんの才能が開花する。教室にあった自動演奏機能付きの電子ピアノ。そのデモ演奏を聴いた瞬間、ひらりさんの表情に変化があった。

「すごく興味を持ったものに触れると、ひらりは白目をむくクセがあって。デモ演奏で美空ひばりさんの『川の流れのように』を聴いた途端、そのクセが出たのを、先生が見逃さずにいてくれて」

本人も、その瞬間を覚えていた。

「うまく言えないんですけど、なんか曲に自分が呼ばれているような感じ。ふわ?っとした気持ちになって、曲の中に自分が入っていく、そんな気がしました」 保育士は「ひばりさんの歌が好きなのね」と、CDをたくさん聴かせてくれた。

「聴いてるうちにこの子、ひばりさんの曲をピアノで、1本指で演奏し始めたんです」

絵美さんは、娘が生後6カ月のころから手を付けず蓄えていた障害者手当で、アップライトのピアノを買い与えた。ひらりさん5歳のときだ。そして、同じ年の11月、彼女は初の“ステージ”に。

「コンサートを開いたわけじゃないんです。老人ホームのボランティア募集の記事を読んだら、そこに『お話でも、歌でも慰問大歓迎』って書いてあって。私、すぐ電話したんです。『うちの子、目は見えないけど歌はわりと上手です。行っていいですか?』って」

快く迎えてくれた老人ホームで、ひらりさんは大好きな美空ひばりや、童謡を数曲、披露した。

「そしたら、おじいちゃん、おばあちゃんたち、とっても喜んでくれて。なかには涙を流してる人も。そして、ひらりに向かって『ありがとう、上手だったよ、またおいで』って声をかけてくれて」

絵美さんは「これだ!」と思ったという。

「いつも『ありがとう』を言うのは私たちのほうだったから。ひらりが歌うと『ありがとう』が返ってくるんだ、って気づいたんです。ひらりの歌は、いままで助けてくれた周囲の人たちへの恩返しになる、そう思ったんです」

その日、絵美さんは娘の肩に手を置き、力強く言った。

「ひらり、これからどんどん、歌っていくよ」

■小学4年生のとき、震災復興支援のため、作詞作曲した楽曲の売り上げを全額寄付した

母娘は歌える場所を探し、積極的に出向いた。やがて、聴く者の胸を打つ歌は評判をよび、あちこちのイベントや、チャリティ番組などから声がかかるようになる。 さらに、ひらりさんは日本バリアフリー協会が主催する、障害者の国際音楽コンクール「ゴールドコンサート」に出場。10年、小3の秋だった。

「ひばりさんの曲同様に大好きな『アメイジング・グレイス』を歌って、ひらりは史上最年少で観客賞と、歌唱・演奏賞をいただいたんです。お客さんが選んでくれた賞ということで、『それなりに、この子は誰かに届く歌を歌えてるんだな』って確信が持てました」

翌11年3月。東日本大震災が発生。その被害の大きさに、多くの人同様、ひらりさんも胸を痛めた。

「地震のこと、テレビのニュースで聞きながら、これは私の想像もつかないような大変なことが起きたんだ、そう思いました」

母は娘に、被災地を応援するための曲作りを提案。その瞬間、ひらりさんの脳裏に「過去・現在・未来」という言葉が浮かんだという。

「それで、4年生になってすぐ『みらい』という初めてのオリジナル曲を作りました。私には見えないけれど、被災した人たちはいま、暗いことばかりに目がいってしまうんだろうな。でも、心の目を開いて、明るい未来を目指して歩いていこうよ。そういう思いを込めて作った曲です」

まず、被災地・福島から三条市内の施設に避難してきて暮らす人たちの前で、ひらりさんは『みらい』を歌った。その年のゴールドコンサートや、慰問に訪れた東北の仮設住宅でも。やがて、曲を聴いた人たちから「CDにして」という声が上がる。絵美さんが言う。

「それで、自費制作したんです。1枚1千円のシングルを1千枚。それを、イベント会場などで販売したら予想以上に売れて。14年にCDの売り上げ100万円を、あしなが育英会を通じ震災遺児の人たち宛てに寄付することができました」

時間を見つけては被災地にも通い続けた。うれしかったのは、人々が少しずつ元気を取り戻す姿。「私も本当にうれしかった」とひらりさん。絵美さんもこう言って笑った。

「最初はひらりの歌を聴いて泣いてた人たちが、数年たつと『ひらりちゃん、頑張りなさいよ。私ら、応援してっから』って。気づいたら、私たちが応援されてました」

母娘の活躍は国内だけにとどまらない。13年夏には、アメリカでもっとも有名なクラブの1つで小6のひらりさんが、満員の観客から万雷の拍手を浴びていた。経緯を絵美さんが説明してくれた。

「5年生のときのゴールドコンサートでグランプリを獲得して、副賞にペア航空券をいただいて。どうせなら歌える場所に行こうよってことに。でも、肝心の航空券は繁忙期は使えなくて、結局自腹で行ったんですけどね(苦笑)」

飛び込んだのが、ニューヨークのハーレムにある「アポロシアター」。かつてジェームス・ブラウンやジャクソン5ら、そうそうたるスターを輩出した人気イベント「アマチュアナイト」に挑戦したのだ。ひらりさんは耳の肥えた聴衆を魅了し、スタンディングオベーションまで受けたという。

「私がホイットニー・ヒューストンさんの『I Will Always Love You』を歌い始めた途端、客席から『キャー!』ってすごい大きな歓声が聞こえてきて。びっくりしすぎて私、鍵盤から手を離しそうになっちゃって。誰かほかのロックのコンサートに紛れ込んでしまったような不思議な気分でした。だって、それまでの日本での私のコンサートは、やはり障害って看板もあるからか『静かに聴きましょう』っていうお客さんが多かったから。その声援を尻すぼみにしたくなくて、いつもはなかなか出せない高い音も頑張って出しました」

歓声の大きさで審査されるアマチュアナイトで、ひらりさんは十数組の出演者のなか、見事、ウイークリーチャンピオンに輝いた——。

そんな2人が、ここ5年間で最大の夢だと語っていたのが冒頭の「パラリンピック開会式での国歌独唱」。逆境を逆境と思わず、夢を叶え続けてきたひらりさんの歌声だからこそ、勇気をもらった人は多いだろう。

2人はまだ、夢の途中。これからも、歌声は世界中に響いていく。

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