病室の外では昨夜から秋雨が降っていた。朝6時をむかえようとしているころ、ベッドに体を横たえる寂聴さんに、寂庵のスタッフたちは代わる代わる声をかけた。
「庵主さん、○○です……」
そのたびに寂聴さんは閉じていた目を少し開けて、その声がするほうへ、少しほほ笑んで見える顔を向けたという。
11月9日6時3分、瀬戸内寂聴さん逝去。享年99。一人娘のMさんや京都・寂庵の女性スタッフたちにみとられての旅立ちとなった。
コロナ禍で休止になる前の法話の会では、集まってきてくれた人々に、あの笑顔でこんな言葉をかけていた。
「それじゃあね、みなさんとは、もしかしたらもうお会いできないかもしれません。もし私の訃報を聞いたら、私は安らかに死んだと思ってください。安らかに死にますからね。 みなさんのお幸せを祈っています!」
そんな言葉どおりの穏やかなお顔だったというーー。
■「コロナで法話の会ができないのがとても寂しい」
寂聴さんの法話が最初に『女性自身』に掲載されたのは’89年4月、’87年に岩手県・天台寺の住職に就任した2年後のこと。当初は「まごころ説法」というタイトルで、不定期掲載を経て、現在も連載「寂聴『青空説法』」として続いている。
コロナ禍以降は、電話インタビューに切り替え、古今東西の名僧の言葉について解説してもらっていた。
最後の電話は10月上旬。鎌倉時代の名僧・兼好法師が書いた随筆『徒然草』について、「いま読んでも面白い」と、さまざまな文章について教えてくれた。「長く話すと疲れるのよ」とは言いながら、寺山修司の詩や、アランの『幸福論』などのことも精力的に語り続けていたのだが、雑談のなかでこんな言葉も……。
「コロナで法話の会ができないのがとても寂しい。私は人にお会いして直接お話しすることで元気になるの。法話の会に来てくださる皆さんからいただいていたパワーがなくなっているのかしら。最近は、なかなか小説を書く力が湧いてこなくて……」
■「貸さない!」200万円の借金を申し出たスタッフへの返答
法話の会の再開を待ち望んでいた知人や寂聴さんファンは全国に大勢いた。そのためもあり、99歳の大往生であるにもかかわらず、寂聴さんの訃報は人々に衝撃を与えたのだ。
寂聴さんが60代から90代に入るまで、寂庵のスタッフとして働き、寂聴さんも編集に携わっていた定期刊行誌『寂庵だより』の編集長を務めていた加藤博子さんも、その一人だ。
「先生は、いわゆる“不良”が好きで、次々にダメ男の面倒をみてあげてましたけれど、実は不幸な女にも優しい人でした。
私は夫とは長く別居しているのですが、息子が美容学校に進学したいと言いだしたのです。学費は200万円もかかるのですけれど、そんなお金は持っていません。
『200万円貸してくれる?』、すると一言、『貸さない! あげる!』。翌日、お金が振り込まれていました」
’13年3月、寂庵の経営状況を心配したベテランスタッフたちが自ら退職を申し出たことがあった。
「私は小説も書いていましたが、“売れない作家”です。寂庵退職後はいつも生活にピーピーしていました。それでも小説の相談をしたくて、1年に何度か大阪のはずれから、お邪魔していたのです。相談が終わって辞去するとき、先生は必ず言うんです。
『博子ちゃん、ここの仕事を辞めた後、やっていけてるの? 寂庵まで来る交通費だって大変でしょ。これを使いなさい』
懐ろからさっとお金を出して、握らせてくれました。それが5万円もあって……、そんな大金を、私が訪れるたびにくれたのです」
寂聴さんの応援はお金だけはなかった。加藤さんが文学賞に応募しても落選続きで、「もう小説を書くのをやめたい」と、弱音を吐いたとき、寂聴さんは叱咤したという。
「私は『生きることは楽しい』と、よく書いているけど、そんな日ばかりじゃない。
そしてまっすぐに加藤さんを見つめ、ぎゅっと手を握りしめた。
「あなたは30年も寂庵にいてくれて、他人が知らないこともたくさん知っている。それを書きなさい。なんでも博子ちゃんの好きなことを書きなさい」
そこで加藤さんは『寂聴、喝!(仮)』と題した長編小説を書いた。しかし、
「出版社に持ち込んだのですが、“プライバシーに踏み込みすぎている”という判断で、いまはお蔵入りになっているのが残念です」
■「死にたいんだけど、ごはんが出ると、つい食べちゃう」
またAさんは寂聴さんと50年来の交流があった。スタッフではないが、尼寺・寂庵の主である寂聴さんのことを親しみを込めて、庵主さんと呼んでいる。
「コロナ禍でお会いできなくなって、最近はしょっちゅう電話でお話ししていました。長くしゃべりすぎるとお疲れになるのではないかと、『もう切るね』と言っても、庵主さんがまた話しだすので、いつも長電話になってしまいます。この夏の終わりごろから、こんな冗談めいたやり取りが始まりました。
『もう生きすぎて死にたいんだけど、ごはんが出ると、つい食べちゃうのね』、『それじゃまだ死ねないですよ(笑)。
寂聴さんからAさんに最後の電話が突然かかってきたのは逝去の3週間ほど前だったという。
『いま、入院しているのよ』
しかしAさんが驚くほどの元気な声だった。
「庵主さんは、私が母親と姑を介護してみとり、いまは夫を介護していることをご存じでした。
『あなたは人の世話ばかりして、ずっと誰かをみてるでしょう。もっと自分の体を大切にしなさい』
いつにない真面目な口調でした。私は、『入院している病人に励まされるなんて、逆じゃないですか』と、いつものように笑い合って電話を切ったのですが、それが庵主さんと話した最後になったのです」
■「人間は誰かを愛するために生まれてきた」
「もう死にたい」と、口癖のように愚痴るいっぽうで、“挑戦をやめない”のが寂聴さんの生涯だった。
本誌が半年前の5月25日号に掲載した99歳誕生日記念のインタビューでは“100歳の夢”について語っている。
「実はいま長編小説のテーマが1つ頭の中で固まっていて、死ぬまでにそれを書きたい、という夢を持っているのです。でもそのためには遠くへ取材に行かなくてはなりません。体力的にどうかなぁと、非常に悩ましい。
ほかにも句集『ひとり』(深夜叢書社)に続く、2冊目の句集も出したい、などと夢見ているところです」
前出の加藤さんは、寂聴さんの生き方についてこう語った。
「先生が仕事部屋にしていたマンションには、恋人たちのお写真がずらっと並んでいました。
また5年くらい前に、先生は真剣な口調で言いました。
『プラトニックラブだけどもね。いま、とてもいい男がいるの。私が死んだときはね、私には最後までそういう(愛する)相手がいたことを、ちゃんと書いてね』
法話でいつも、『人を愛しなさい、人間は誰かを愛するために生まれてきたのですから』、そう話していたのを、昨日のことのように思い出します。
先生は言うだけの人ではありませんでした。その言葉どおりに、最後まで愛する人がいらしたのですから、先生は思い残すことのない幸せな一生をまっとうしたと思います」
書いて、祈って、愛して、救って、挑んで……。瀬戸内寂聴さんの99年の生涯は好んで集めていた万華鏡のようにまばゆく輝いているーー。