住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に夢中で読んだマンガの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょう――。

「小学校のころからスポーツは得意で、助っ人として参加した女子サッカーチームで、全国大会にも出場しました。小6のときの50メートル走のタイムは6秒08。ですから『タッチ』のヒロインで、スポーツ少女の南ちゃんのイメージガールを選ぶ『ミス南コンテスト』では『芸能界でいちばん足が速い石川秀美さんにも、絶対に勝つ自信があります』とアピールしたんです」

そう懐かしそうに振り返るのは、生稲晃子さん(53)。当時よくテレビ放送されていた芸能人の運動会にも出場したいと思っていたそうで、それは’80年代アイドルの影響が大きかったという。

なかでも真っ先に思い出すのは田原俊彦だ。

「小6のときに『3年B組金八先生』(’79~’11年・TBS系)を見てファンに。同時期にデビューした松田聖子さんも大好きで、2人が出演する『レッツゴーヤング』(’74~’86年・NHK)や『ザ・ベストテン』(’78~’89年・TBS系)は欠かさず見ていました。とくに『ベストテン』は、毎週、ランキングをノートに記録。翌週の予想をしていたのですが、2人のファンだから、どうしても上位にくるんですね(笑)」

とくに印象に残っている曲は、トシちゃんの2枚目のシングル『ハッとして!Good』(’80年)。

「グリコのチョコレートのCMソングで、赤い電話ボックスでトシちゃんと聖子ちゃんが出会うシーンが、すごくすてきだったんです」

海外旅行にも憧れていた当時、『アメリカ横断ウルトラクイズ』(’77~’92年・日本テレビ系)を見て、疑似体験をしていた。

「アメリカどころか、まだ飛行機にすら乗ったことがなかったので、番組はすごく楽しみでした。問題が難しくて全然わかりませんでしたが、最初の◯×クイズくらいはできるので、参加するのが夢でしたね」

テレビのCMで流れていた、杉山清貴&オメガトライブの『サマー・サスピション』(’83年)も、青春の1曲。

「一時期、授業中でもずっと頭の中に流れていたほど。詞が好きで、何度もノートに書き写していました。杉山さんの曲は、都会の大人の恋愛が描かれていて“杉山さんの歌に出てくるような、おしゃれな女性になりたい”って思っていました。“ハンドルを握った女性がハイウエーをひた走る”みたいな歌詞の世界観を想像しては、かっこいいなって。3枚目のシングル『君のハートはマリンブルー』(’84年)の歌詞に“ツイードのジャケット”が出てくるのですが、“いったいツイードってなんだ?”って思ったりして。今みたいにスマホで簡単に調べられないから、なかなかわからなかったのですが、芸能界に入ってから着る機会があって“これがツイードか!”と、感動したことを覚えています(笑)」

■優勝候補と言われた「ミス南コンテスト」

とにかくテレビが好きで、生活の中心。好きな番組が放送されていない時間を見計らって、お風呂に入ったりしていたそう。

「アイドルはいつも、かわいい衣装を用意してもらえるし、車の後ろの席に乗って移動しているじゃないですか。そんな華やかな生活をうらやましく思っていましたが“じゃあ、自分が芸能界へ!”とはまったく考えませんでした」

’84年、16歳のときに「ホリプロタレントスカウトキャラバン」に応募したのは、芸能界への憧れとは別の理由だった。

「たしか優勝者に100万円、その推薦者に50万円が贈られていたと思うんです。思春期に親とぶつかったとき、『一銭の稼ぎもないくせに、偉そうなことを言うな』って怒られて、それなら“一銭の稼ぎをしよう”と。『合計150万円の賞金がもらえたら山分けする』と約束して、4つ上の兄に応募写真を撮影してもらいました」

残念ながら賞を取ることはできなかったが、系列の芸能事務所からスカウトされ、所属することに。

「それでCMのオーディションなどを受けたんですが、どれもうまくいかなくて、次第に生活の中心が高校のバレーボール部になっていきました」

大学進学に力を入れている私立高校に通っていたこともあり、まわりもすっかり受験モードに突入していた高3のころ、出合ったのが「ミス南コンテスト」だった。

「『みゆき』や『タッチ』など、あだち充先生の作品を兄が好きだったこともあって、私も単行本を読むように。自分のペースで世界観に浸りたかったので、アニメよりマンガで楽しんでいました」

スポーツが得意で、髪も肩にかかるくらいだった生稲さんは、友人から「南ちゃんに似ている」と言われることも。

「その言葉に有頂天になり、どんどん南ちゃんのことが好きになってしまって(笑)」

だからこそ絶対にコンテストには出場したかった。

「“芸能界で手っ取り早く稼ぐ”という幻想を捨てて大学受験に集中するための、最後の思い出作りのつもりでもありました」

決勝戦は、新宿のスタジオアルタで行われたが--。

「その前に『どうも、あだち先生があなたを気に入っているらしく、優勝する可能性がある。当日は制服を着てきてください』と言われ、南ちゃんと同じようなジャンパースカートで行きました」

だが、“芸能事務所に所属していないこと”が条件だったこともあり、生稲さんはグランプリを逃してしまったという。

「帰りの電車の中で“話が違う。芸能界は嘘の世界だ”って、大泣きしました。一緒だった母は恥ずかしかったと思います」

しかし、このコンテストで生稲さんに魅力を感じたレコード会社から、おニャン子クラブのオーディションを受けてみないかと、電話があった。

「最初は失意のあまり『嫌です』と即答したんですが、『一度、スタジオに来てください』と言われて。トシちゃんがそのレコード会社から曲を出していて、レコードやポスターをたくさんいただき、説得されてしまいました(笑)。

“ダメでも普通の生活に戻ればいいだけ”と考え直し、おニャン子クラブのオーディションを受けることにしたんです」

それをきっかけにデビューした生稲さんは、芸能界での足場を築き、現在に至っている。

「南ちゃんは本当に好きなキャラクター、私の人生を変えてくれた存在なのは間違いありません」

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