田久保市長が提出した“卒業証書”は一体なんだったのか…学歴詐称疑惑に経済誌元編集長「会見での涙の意味が私には全くわからなかった」
田久保市長が提出した“卒業証書”は一体なんだったのか…学歴詐称疑惑に経済誌元編集長「会見での涙の意味が私には全くわからなかった」

静岡県伊東市・田久保真紀市長の学歴を巡る疑惑が話題を呼んでいる。市の広報誌「広報いとう」7月号には「平成4年東洋大学法学部卒業」と市長の経歴が記載されていたほか、市長選前の報道機関への経歴票にも「東洋大学法学部経営法学科卒」と記載されていた。

だが、後に田久保市長は東洋大学から除籍されていたことが明らかになったのだ。では、田久保市長が提示していた卒業証書はなんだったのか……。経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏が解説する――。 

告発文を作成した人物の特定を弁護士を立てて着手 

静岡県伊東市の政治は底が抜けてしまったのではないだろうか。

市民の信託を受けて初当選した田久保真紀市長が、自身の最終学歴を偽っていた疑惑について記者会見を開いた。田久保市長は大学を卒業しておらず、除籍されていた事実を認めた。

公人としての根幹を揺るがすこの事態は、単なる経歴の誤記では断じて済まされない。一連の対応に見られる欺瞞に満ちた姿勢は、市長という公職に就く者として決定的に資質を欠いていることを白日の下に晒している。

事件の発端は6月上旬、伊東市議会議員全員に届けられた匿名の告発文だった。告発文は田久保市長が公言する「東洋大学法学部卒業」という経歴は嘘であり、実態は「中退どころか除籍」であると指摘する内容だった。

市の広報誌「広報いとう」7月号には「平成4年東洋大学法学部卒業」と市長の経歴が堂々と記載されており、市長選前の報道機関への経歴票にも「東洋大学法学部経営法学科卒」と記載されていた。

議会でこの問題が追及されると、田久保市長は告発文を「怪文書」と断じ、まともな説明を拒否する態度に終始した。あろうことか、疑惑の解明ではなく、告発文を作成し送付した人物を特定する作業に弁護士を立てて着手していると公言した。

問題をすり替え、告発者を攻撃することで追及から逃れようとしているようにも見える。

この初期対応の段階で、田久保市長は政治家としての倫理観が完全に欠如していることを自ら証明したようなものだ。6月28日、田久保市長は自ら大学へ赴き、卒業の確認が取れず除籍されていた事実を把握したと、7月2日の会見で述べた。卒業したと思い込んでいたのは「勘違い」だったと弁明し、時折涙ぐむ姿さえ見せた。この涙の意味が私には全くわからなかった。

 「卒業証書」と称する書類を提示した一件 

市長の行動には、到底「勘違い」では説明できない、意図的で計画的な欺瞞の影が色濃く付きまとっている。田久保市長の欺瞞体質を最も象徴する行為が、市議会の中島弘道議長らに「卒業証書」と称する書類を提示した一件である。

6月4日、田久保市長は自ら議長室を訪れ、疑惑を否定する証拠として一枚の書類を見せた。中島議長によれば、書類は「ちらっと」見せられただけで、詳細を確認する時間は与えられなかった。見えたのは「法学部」と「田久保真紀」という文字だけだったという。

この行為は、極めて計算された、悪質な心理操作ともとれる。書類を瞬間的に提示する行為は、相手に「確かに何かを見せられた」という事実だけを強く印象付ける。内容を精査する時間を与えないことで、相手が「確認できなかった」という事実を、あたかも自身の注意不足や集中力の欠如に起因するかのように錯覚させる効果を持つ。

提示した側は「私はきちんと見せました。あなたが見落としただけでしょう」と強弁できるアリバイが成立する。責任を相手に転嫁し、自らは説明責任を果たしたかのような体裁を整える、姑息で巧妙な手口だ。田久保市長が後に除籍の事実を認めたことで、中島議長は「見せられた卒業証書が偽物だったとわかった」と断じている。

特に注目すべきは、田久保市長が用いた言葉の選び方 

偽物であった場合、有印私文書偽造という犯罪行為に該当する可能性すら浮上する。田久保市長の行為は、市民の代表である議会を欺き、その権威を著しく貶める暴挙に他ならない。一瞬だけ書類を見せてすぐに引っ込めるという行為は、誠実な説明とは程遠い。

卒業証書に関する疑問は、物理的な書類の提示方法だけに留まらない。記者会見での応答には、言語を巧みに利用して、既成事実を作り出そうとする意図が見え隠れする。記者から「議長に見せた書類は卒業証書だったのか」と核心をつく質問が浴びせられたが、田久保市長は明確な回答を避け、論点をずらし続けた。

特に注目すべきは、田久保市長が用いた言葉の選び方である。

「私としては、これで自分の経歴が分かっていただけるかなという意味でお見せした」

「卒業を証明するものであろうと思ったので私も他の方にお見せした」

これらの発言は全て過去形である。「お見せした」「思った」。

この過去形の多用は、聞き手に対して「提示という行為は既に完了している」という印象を植え付けようとするレトリックだ。

提示された書類が一体なんだったのかという、問題の根幹部分には一切触れず

あたかも、過去の時点で十分な説明と証拠の提示は済んでおり、今更それを問うのはおかしい、と言わんばかりの態度である。提示された書類が一体なんだったのかという、問題の根幹部分には一切触れず、「提示した」という行為の存在だけを繰り返し強調する。

実際に十分な確認の機会を与えていないにもかかわらず、「見せた」という過去の行為を盾に、現在の説明責任から逃れようとしている。これは、言語による事実の事後的な構築であり、極めて不誠実な情報操作だ。

記者会見という公の場で、市民への説明責任を果たすべき立場の人間が、言葉を弄して事実を歪め、その場を乗り切ろうと画策する。この態度は、市長という職責に対する冒涜であり、有権者への裏切りである。田久保市長は、物理的な「ちら見せ」と、言語的な「提示済み印象」の形成という二重の欺瞞工作によって、この危機を乗り切れると本気で考えていたのだろうか。その浅はかさと市民を軽んじる姿勢には、怒りを通り越して、もはや呆れるほかない。

田久保市長の一連の行動は、単なる「嘘」という言葉では捉えきれない、より複雑で悪質な「欺瞞」の構造を持っている。

フランスの認知科学者が指摘する半真実 

フランスの認知科学者、ベンジャミン・イカールが2019年に発表した博士論文「嘘、欺瞞、戦略的省略:定義と評価」は、この問題に鋭い分析の視座を提供する。イカールは論文の中で、嘘や欺瞞、そして意図的な情報の省略がどのように機能するかを論じている。

「曖昧さは、嘘と誠実さの関係において諸刃の剣である。協調的な話し手が世界について不確かな状況では、曖昧さは誠実さのための資源を提供する。

それは、偽であったり不当に本当であったりするような、より正確な発言をすることを避ける。そして、それはクオリティとクオンティティのグライス流の公理を満たすための最適な解決策であると間違いなく言える。一方、協調的でない話し手が世界について完全に情報を得ている状況では、曖昧さは欺瞞のメカニズムになり得る」

「我々はそのような2つのケースを区別する。話し手が聞き手から情報を隠すために意図的に不正確であるケース。そして、話し手が曖昧な述語の持つ意味論的な不確定性を利用し、ある意味では真実だが別の意味では偽である発言を生み出すケースである。我々が半真実と呼ぶこのような発言は、嘘とみなされるべきだろうか。その答えは、我々が示唆するように、文脈に依存する。明確な真実性の欠如は、虚偽を断定するのに常に十分というわけではない」

その書類が「在学証明書」や「単位修得証明書」だったとしたら 

この分析は、田久保市長の行動を理解する上で極めて示唆に富む。市長が議長に見せた書類が、もし偽造された卒業証書ではなく、例えば本物の「在学証明書」や「単位修得証明書」だったとしたらどうだろうか。

その場合、書類自体は本物だが、それを「卒業を証明するもの」として提示する行為は、まさにイカールが言うところの「半真実」を利用した欺瞞行為にあたる。また、会見で書類の正体について説明を拒み続けた態度は、情報を隠蔽するための「意図的な不正確さ」であり「戦略的な省略」だ。

田久保市長は、言葉や物事の曖昧さを最大限に利用し、有権者と議会を欺こうとした。

それは「勘違い」などという生易しいものではなく、計算され尽くした欺瞞の戦略なのである。

文/小倉健一

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