ミラーボールがギラギラ回る。縦横無尽に飛び交うレーザー。
ここは東京・新宿歌舞伎町のド真ん中。「新宿のおもちゃ箱」とも呼ばれるクラブ『Tokyo Decadance Lounge DecaBarS』(以下、デカバーS)だ。
6月4日深夜24時55分。音楽のボリュームが少し下がった。
「みなさん、お待ちかね。いよいよギネスDJが待機中!」
「イエ~イ!」
怒濤のように歓喜の声が湧き上がり、客たちは店奥の一段高いDJブースの前に大集合。スマホをDJブースに向け、いまかいまかと待ち構える。ジャスト25時。
「お待たせしました。DJ SumiRock!」
「イエーーーイ!」
ひときわ高い歓声の中、四方八方から点滅するスマホのフラッシュで、一瞬ブースが光に包まれた。その純白の光の中から、両手を高く上げて現れたのが、スミロックこと岩室純子さん。
宇宙服のような金ピカの衣装、キャップにはラインストーンでかたどられたROCKの大文字、メタリックシルバーのスニーカーにも大粒のラインストーンがデコられている。黒いマスクを外すと、スミロックは純白のヘッドフォンをつけてターンテーブルへと向かった。最新のターンテーブルはすべてデジタル制御。人生の大半をパソコンも携帯もないアナログ時代で生きてきたはずの彼女が、デジタル機材を自在に操り、体でビートを刻んで自作のミックスCDの曲をタイミングよく切り替えていく。
「スーミー! スーミー!」
お客さんはノリノリだ。『鬼滅の刃』やメイドなどのコスプレ衣装で踊る客も多い。細かい音を聞き逃すまいとヘッドフォンに添えたスミロックの指先には真っ赤なマニキュア。ファンからスマホを向けられるとクールな視線を返す。真っ赤なリップの唇で不敵にほほ笑み、両手を突き上げる。瞬くフラッシュの渦。
あっという間の1時間。
「喜寿って何? 77歳からDJってすごい? でも私、年齢なんて気にしたことないの!」
そう明るく笑い飛ばした純子さんは、どんな人生を歩んできたのだろう。
■ジャズドラマーの父を持ち、音楽大好きに。何物にも縛られず恋愛と旅行を楽しんだ
「父は楽之と書いて、たのしといいます。ジャズドラマーで、戦前はかなり羽振りがよかったようです。収入は東大出の先生の3倍。祖母は百貨店の外商がくると、私にもワンピースを買ってくれました」
そう笑顔で語る純子さんは、1935(昭和10)年1月27日、高田馬場(当時は淀橋区戸塚町)で生まれた。母は千秋さん。弟が2人。
「私がものごころついたころは戦争で、ジャズは敵性音楽。ジャズのSP盤を聴くときは、外に音がもれないように、スピーカーを座布団で覆い、その中にもぐって聴いたものです」
ジャズを禁じられた楽之さんは、映画音楽や少女歌劇団の仕事、軍の慰問、大日本飛行協会の職員などもして生計を立てた。
やがて空襲で家は全焼。
終戦を迎えると、父の療養をかねて母の実家のある北海道へ転居。2年ほどで東京に戻ったという。
「体力が回復した父は、進駐軍相手の音楽事務所を開くんです。父は好奇心旺盛のアイデアマン。戦後で皆、自由な空気を求めているなか、バンドと手品を組み合わせたり、大流行したストリップと組んで、また当てたんです。森山良子さんの父・森山久さんやかまやつひろしさんの父・ティーブ・釜萢さんなど、いまやレジェンドと呼ばれる戦後のジャズ界のスターとも交流もありました」
そんな父が突然、音楽の仕事をやめ、「餃子荘ムロ」を開いた。純子さんは19歳。高校卒業後、英語や英文タイプを習い、商社の秘書として働き始めたころだった。
「店名の『ムロ』は、父の呼び名だったようです。音楽で米軍キャンプ回りをしていたとき、満州帰りの人たちが作る餃子と出合い、自分で皮も餡も開発。手作りするようになっていました。
純子さんは、昼は秘書、夜は餃子店の手伝いと多忙になり、1年ほどで餃子店に専念することに。
「仕事は午後1時の仕込みから夜中の1時まで。ただただ焼きたての餃子を食べてもらいたい一心でした。夜のクラブやディスコなんて存在すら知りませんでした」
年ごろになった娘を心配した両親は、結婚を勧めたが、純子さんは頑として受け付けなかった。
「10代のころから、私は絶対、結婚しないと決めていました。石川達三の小説『幸福の限界』の中に“結婚とは性生活を伴った女中奉公”という一節があって、そんな生活は絶対にイヤだ、と。縁談やお見合いは全部、断っていましたね」
そこで、いたずらっぽくほほ笑んだ。
「でも、結婚と恋愛は別と思っていましたから」
22歳で生涯のパートナーと出会っている。
「彼は中国人で25歳年上。父と同い年でしたけど、世代ギャップもなくて、とにかくカッコいいの。脚が長くて、お尻がプリッと上がっていて。私、お尻にほれたんだもん」
サルトルとボーヴォワールのように、結婚にこだわらない自由なパートナーシップが心地よかった。
「私はどうでもよかったけど、彼には中国に子どもがいて。来日させるときの手続きには入籍したほうが有利などということもあって。だから、結婚してあげたの。自分の子ども? 彼は欲しいと言ったけど、私が断りました。欲しいとは思わなかったですね」
40歳手前で父が急逝してからは、弟の捷士さん(77・まさし)・ルリ子さん(75)夫婦や、その息子の建治さん(43)とともに店を守った。
パートナーや母が次々と旅立ったのは、60歳になるころだった。
「だから、60代になるころからずっと一人暮らしです。寂しさもあったけど、一人になって好きなことができるんだと、考え方を切り替えました。したかったことに本気でチャレンジしたんです」
運転免許も60代で取った。ふだんはムロで懸命に働き、お金がたまると海外旅行を思い切り楽しんだ。
「まずはいちばん行きたかったニューヨークへ行きました。
60代からの遅れてきた青春? いやいや純子さんの人生は、ずっと青春真っただ中だ。
その後、あるフランス人の青年と知り合ったことがきっかけでDJスクールに通い出した純子さん。デビューは77歳、今年で10周年だ。
彼女の生き方は87年間、一切ぶれない。これからも好きなことに好きなだけ取り組み、多くの客を熱狂の渦に巻き込んでいくだろう。
【後編】ギネス認定の87歳DJ純子さん「年齢まったく気にしない」77歳からスクールにへ続く