カタールW杯の初戦で優勝4度を誇る超強豪・ドイツを逆転で破り、世界中を驚かせたサッカー日本代表。その逆転ゴールを挙げたのが、浅野拓磨選手(28)だ。

「あれは拓磨が得意だったプレーです。味方が劣勢で守備重視のとき、一本のロングパスが出て、それに拓磨が合わせて一人で点を取ってくる。中学生のときに私の前でよく見せていたことを、まさかあの大舞台でやってのけるとは」

そうほほ笑むのは、中学時代の恩師、サッカー部顧問の内田洋一さん。W杯の前には浅野選手からカタールに招待されたという。

「私は時間の都合で行けませんでしたが、拓磨のご両親、それにきょうだいたちも現地で応援していますよ」

浅野選手は両親のもと、男6人女1人の7人きょうだいという大家族で育った。

「長男がサッカーを始めた影響で、三男の浅野選手だけでなく上から6番目までの男兄弟全員がサッカーに夢中だったそうです。家の中でもみんなでボールを蹴るから、ふすまや障子はボロボロだったとか」(スポーツ紙記者)

わんぱくながら仲のいい兄弟だったという。しかし食べ盛りの男の子たちを抱え、経済的には厳しかった。本誌は’16年、母・都姉子さんを自宅で取材している。

「毎朝6~7合、夕食は7合のゴハンを炊いていたから、10キロのお米が1週間足らずでなくなって。食卓はボールを奪い合うグラウンドと一緒でした。そのころから家計簿をつけるのをやめました。

食費がすごくて、計算すると落ち込んでしまうから」

長距離トラック運転手の父・智之さんの給料だけでは家計は賄えない。都姉子さんは飲食店や工場、スーパーのレジ打ちなどの仕事をして家計を助けた。それでも苦労は絶えなかった。

「携帯電話の料金が払えずに止まってしまうこともよくあったといいます。浅野選手は家計の足しになればと、部活の仲間たちが飲んだジュースの空き缶を集め、リサイクル費として戻ってくる10円をためていたそうです。貯金箱いっぱいで8千円。それがたまると、そのお金を母に渡し、部活の遠征費に充てていたのです。これを高校3年間ずっと続けました」(サッカーライター)

それでも浅野家が明るさを失わなかったのは両親のおかげと、浅野選手は自著『考えるから速く走れる ジャガーのようなスピードで』(KADOKAWA)で語っている。

《貧乏でも、浅野家にポジティブな空気しかなかった理由は、やっぱり、お父さんとお母さんのキャラクターが大きい。普通の親なら、子どもたちに苦労しているところを見せたくないと考えるのかもしれません。でも、ウチは見え見え(笑)。結婚指輪を売ったときはさすがに「ヤバいな」と思いましたが、そんな状況でも、両親はいつも明るかった》

六男の誕生から10年後、浅野家にとって待望の女の子・心春ちゃんが生まれた。

前出の恩師・内田さんが語る。

「ちょうど拓磨が全国高校選手権で得点王になったころに生まれた子なんです。だから拓磨は『僕の勝利の女神だ』ってよくうれしそうに話していました」

内田さんの奥さんも振り返る。

「生まれたばかりの妹をお風呂に入れて世話するのは、拓磨くんの楽しみだったそうです」

17歳年下の妹は、浅野選手にとって家族の中でも特別な存在となった。これまで母に苦労をかけ続けたが、家族、そして妹は俺が守る。そんな決意とともに、浅野選手のサッカーキャリアはますます上昇。’13年にはJリーグ・サンフレッチェ広島に入団することができた。

都姉子さんは本誌に対し、こう明かしている。

「拓はプロ入りしてから毎月10万円を家に入れてくれるようになりました。弟の進学費用も助けてくれて。家の軽自動車がボロボロだからと、ミニバンのステップワゴンまで買ってくれたんです」

プロ入り後に苦しい時期もあったが、最高の舞台で結果を出した浅野選手。これ以上ない家族への恩返しとなった。

現地カタールのスタジアムで“勝利の女神”心春ちゃんが送った声援と浅野家の絆が後押ししたゴールは、日本中を大歓喜させた。

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