日本映画の黄金時代、そのコケティッシュな美貌と艶のある演技で数々の名作に出演。吉田監督と独立プロを立ち上げてからは、世界的な名声を得た監督の女神であり続けた。
家庭では仕事の話は一切せず、夫に尽くした。二人で1日でも長く一緒に生きようと約束したが、夫は昨年末、突然、世を去った。
悲しみは尽きない。けれども、リビングに置いた監督の遺骨に「行ってきます」と声をかけ、毅然として前を向くーー。
岡田茉莉子さんは33年1月11日、東京・渋谷区代々木に生まれた。父は無声映画時代の名優・岡田時彦、母は宝塚歌劇団で男役を務めた田鶴園子であるが、親子3人の生活が整う前に時彦は結核で他界してしまう。
「父の記憶はありません。家の壁に一葉のポートレートが飾られており、和紙が1枚かぶせられて。そよ風で揺れるたびに男性の顔が見え隠れする。『この人が私の父親ですか?』と母に聞くことはできませんでした。それを問えば母を悲しませてしまうことを知っていたからです。私は肝心なことを胸に秘めておく性格なのです」
幼少期は母と2人で大阪、上海など住まいを転々とした。
高校を卒業すると同時に、叔父の勧めで東宝ニューフェイスとして東宝演技研究所へーー。
「お膳立てはされていたようです。父がサイレント時代に亡くなっていますから、トーキー時代にも俳優であってほしいという母の願いが私に託されたのでしょう」
急展開はこの後も続く。入所して20日足らずで、成瀬巳喜男監督の『舞姫』に抜擢され、準主役で銀幕デビューを飾ったのだ。
岡田茉莉子の芸名はこの直前に文豪、谷崎潤一郎から命名された。
「『時彦くんのお嬢さんか。腕がそっくりだね』と言われて。先生らしい表現だわ、と思いました」
■名画『秋津温泉』で吉田監督と出会い、やがてともに独立プロを興し彼の才能を支え続けた
岡田さんはデビュー以降、瞬く間に頭角を現していく。初めこそ岡田時彦の娘だから優遇されているのではないかと、嫉妬の視線にぶつかることもあった。
「帰宅するや母親に向かって『やめたい』と懇願した夜もありました。『何事も10年やってみなければわからないわ』という母の励ましに前を向くしかなかった」
そうした雑音も次第にかき消されていく。撮影所では原節子や高峰三枝子といった伝説の女優と寝食を共にし、月1本のペースで出演するようになる。まさに日本映画の黄金時代。悩む暇もない忙しさであった。
「10年はがんばってみよう」と思えた原動力として、「母親を表札のある家に住まわせたい」という目標があった。これは23歳でかなえた。
「ずっと居候生活でしたから、誰からもお金を借りずに目黒区八雲に和風建築の一軒家を購入したとき、(本名の)『田中』『岡田』と表札を並べて門に掲げました」
このころ岡田さんは、派手な顔立ちからか、『芸者小夏』の温泉芸者や『思春期』のアプレゲール娘のインパクトが根強く、奔放で気の強い女の役ばかりが与えられる。その一辺倒のイメージから脱却すべくわずか22歳の女優がある日、ひとりで撮影所長室をノックして直談判した。
「私は自分のイメージをガラッと覆す作品に出演したいーー」
このときの交渉は成功したものの、その後、岡田さんは24歳で松竹へ移籍。デビュー以来100本の映画に主演したころ、運命の出会いが迫っていた。
「ぜひ演じてみたい役が、藤原審爾の小説『秋津温泉』の新子でした。
予算からキャスティングまで、すべてに責任がかかる重圧もあった。そこで岡田さんが白羽の矢を立てたのが新進気鋭の監督、吉田喜重であった。
吉田監督は東大仏文科を卒業後、松竹に入社。27歳にして『ろくでなし』で脚本・監督デビューしたばかり。岡田さんは既にこの脚本を読んで「底知れない才能が出てきた!」と感嘆していたのだ。さっそくオファーしたところ、「私はオリジナルしかやりません」という理由で断られてしまう。
「諦めずに2度、3度とお願いしたら、『では私流の秋津温泉でいいですか?』とようやく交渉が成立しました」
2人の縁をつないだこの作品の撮影中、「岡田茉莉子、吉田喜重と結婚を決意!」と本誌『女性自身』がスクープを打ったのだ。
「ロケ地の温泉郷にマスコミが押し寄せてきて、撮影どころではない騒ぎとなったの。松竹が『女性自身は入るべからず』って張り紙を貼ろうかって、あのときは私も吉田も憤慨しましたよ(笑)」
このころは『秋津温泉』を成功させることしか念頭になく、吉田監督と個人的に語り合うことさえ一度もなかったのだと、当時を振り返る。そしてこう続けた。
「でも、あの記事でお互いを意識するようになったことは否めないですね(笑)」
岡田さんはそもそも吉田監督の脚本を読んだことから、その才能に強く惹きつけられた。
ともあれ『秋津温泉』は大成功を収め、数々の映画賞を受賞。祝賀パーティで、岡田さんにとって忘れられない出来事があった。
「この時点で10年、女優として走り続け、栄誉ある賞もいただくことができた。これ以上のことはもう起こらないだろうから、母に『引退しようと思う』と告げたのです。母もこのときは引き止めるすべがなかったようで。私は壇上での引退スピーチも考えていたのですが」
ところがこの言葉を近くで聞いていた吉田監督から、『あなたの青春を捧げた女優としての10年が勿体無いと思いませんか』と諭され、一瞬にして翻意したのだという。岡田さんは壇上で、「命のある限り女優を続けます」と逆の決意をスピーチしていた。
「女優としての覚悟ができたのはこのときだったかもしれません」
『秋津温泉』が終わると、時間を作って会うようになり、互いの話をするようになっていた。プロポーズは、吉田監督が『嵐を呼ぶ十八人』を撮り終えた直後のこと。
2人で映画を作りながら、ともに歩こうという意味に聞こえました」
岡田さんは懐かしそうにふわりとほほ笑む。実際に結婚生活はそのとおりになった。
64年6月21日師匠である木下惠介監督の立ち会いの下、無事に西ドイツ(当時)で式を挙げ、新婚旅行から帰国して早々事件が起こる。吉田監督は、挙式直前に監督した『日本脱出』のラストが無断でカットされていたことに抗議。「自分の撮りたいものを撮るには独立しかない」と松竹を退社し、夫婦で独立プロ『現代映画社』を立ち上げた。岡田さんは自分の見いだした吉田監督が才能を遺憾なく発揮できるよう支えたいという思いで、迷いはみじんもなかった。
「松竹に『辞めます』と挨拶に行ったら、『君まで辞めなくても。いばらの道だよ』と諫められましたが、『彼についていきます』と。吉田に、思い切り作品を撮ってほしかったのです」
そこでは吉田監督の『エロス+虐殺』『煉獄エロイカ』『戒厳令』など才気ほとばしる名作が生まれた。時代は70年安保、映画は時代特有の問題意識に吉田監督の独特のカメラワークと映像美が相まって、そのつど大きな話題をさらった。それらはのちにヨーロッパでリバイバルされ、吉田監督は国内より、世界で大きな名声を得ることとなる。
「彼の撮影するものは時代を先取りしすぎているから、撮っておけばいつか時代が彼に追いつくだろう、と確信していました」
吉田監督を支えるため、岡田さんは大ヒットした『人間の証明』など、現代映画社の作品以外にも数々の話題作に出演した。
「私がよその映画やドラマに出演し、そのギャランティも製作費に回す。このやり方で、私たちは一度もお金を借りずに映画を撮り続けることができました。これは私の誇りです」
2人は一日でも長く一緒にいようと約束した。だが、別れの朝は突然、訪れた。
■遺骨は応接間のリビングに置いてある。朝に晩にと語りかけ、前を向く日が始まる
百箇日は「卒哭忌」とも呼ばれ、泣くのをやめて前に進む節目であるとされるーー。
「吉田は父であり、恋人であり、師匠であり、友人であり、そして、私を大女優に育ててくれた最高のパートナーでした。亡くなった当時はぼうぜん自失としていましたが、法要を終え、やることが次々と舞い込むので、前を向かなければと。何十年と習慣にしていたダンスのレッスンも再開しました」
いまの岡田さんにとって忙しさは救い。否応なしに一人で前を向く日が始まっているのだ。
東京と韓国・釜山で吉田監督作品の追悼上映が決まり、いま岡田さんはその準備に追われる。6月17日から「シネマヴェーラ渋谷」で始まる『追悼特集 来るべき吉田喜重』では全22作品が上演され、岡田さんは初日の17日、24日、7月2日の3度舞台挨拶に立つ。
岡田は、応接間のリビングに置かれた遺骨に語りかける。
朝は「おはよう」と語りかけ、帰ると「ただいま」とーー。
「今日はあの『女性自身』のインタビューで、いろんなことを聞かれたわ。本当は無口でおしゃべりの苦手な私が、がんばっていろいろ話したわよーー」
インタビューの終わりがけ、こう語りかけるだろうと笑った。
夫婦でこの世に送り出した作品が世界のどこかで上映されるために、岡田茉莉子は90歳の今日も現役であり続けるーー。
【後編】岡田茉莉子、90歳 夫であり、映画監督であった吉田喜重さんと、公私ともに歩んだ60年に続く