「スライスようかん」や、パティシエの藤田怜美さんと開発した和と洋を大胆にかけあわせたお菓子など、独創的な商品をつぎつぎと生み出してきた創業220年の老舗京菓子店「亀屋良長」。じつは過去に経営が傾きかけたこともあったという。
■小倉ようかんの売り上げが3年で1千倍に
古都・京都の名所である二条城、壬生寺、錦市場などが徒歩圏内の四条。この地で、亀の甲羅をイメージした六角形の中心に「良」の文字をあしらったロゴが染められた、白地ののれんを掲げるのが、享和3年、1803年に創業した京菓子司「亀屋良長」だ。
木地の格子戸を引いて店内に入ると、八代目・吉村良和さん(51)の妻で、女将の由依子さん(48)がユニホーム姿で現れた。
「和菓子作りには良質な水が欠かせません。小豆は何度も水にさらしますし、餅を炊くのも水。初代がよい水を探し、醒ヶ井水と呼んでいる地下水が湧き出るこの地に店舗を構えはったんです」
彩光が計算されており、店内の奥まで明るくあたたかな雰囲気。
「7?8年前にリニューアルしたんです。以前の店内は少しうす暗く、外から見えづらくて。落ち着いた雰囲気ではあるけど、老舗ならではの敷居の高さもあったかもしれません。改装後『この辺、よく通っていたのにお菓子屋さんがあるなんて気づかへんかったわ』と言われたりするんです」
棚に陳列されたお菓子は、若い女性が好みそうなポップでかわいいパッケージが特徴だ。ちょうど由依子さんが陳列棚を整えていたのが「スライスようかん」のコーナーだ。
スライスチーズのようにパンにのせて、あんこがぐつぐつとなるまでトースターで焼くだけ。トーストはサクッ、あんことトロリと溶けたバターの香りが絶妙で、すべてのあんバタートースト好きを納得させる味。甘いものは、人を幸せな気分にしてくれるのだ。
「『スライスようかん』のおかげで、小倉ようかんの売り上げが初年度で160倍、2年目で250倍、3年目で1千倍になりました。ようかんがほとんど売れていなかったということもありますが(笑)」
はんなりとした柔らかい笑顔で語るが、一時期は数億円単位の負債を抱えるほどで、深刻な経営危機に見舞われていたという。その改革に乗り出したのが由依子さん。社会人経験のないまま24歳で良和さんと結婚。和菓子の知識はほぼゼロで、アイデアを持ち込んでもベテラン職人からけむたがられるほどだったが、素人だからこそ、保守的で変わらないことが当たり前の老舗和菓子店に新しい風を送ることができた。
「京都の人は面と向かって何も言わはりませんけど、業界の人からは回り回って『亀屋良長さん、大丈夫やろか』という声も聞こえてきて(笑)。だいぶ変わったことをしているように見えたんやと思います」
■洋菓子作りに夢中だった少女時代
吉村由依子さんは1977年3月3日、淳二さん(85)、淳子さん(79)の間に生まれ、兄2人、姉1人の末っ子として、苦労もせず、のんびりと育った“箱入り娘”。
「日々の不満もなく、何も考えないでぼーっとしているような、アホな子でした。兄に『なに考えてんの?』と言われて『なんにも』と答えて、笑われたりしていました」
一方、父は京都大学医学部の教授だった。
「父は家に帰ると、ふすま一枚隔てた書斎にこもって論文を書いたり、いつも勉強しているタイプ。優秀な姉は医学部進学を期待されていましたが、私は父から勉強のことで何も言われたことがありません。期待されないことも、むしろ居心地がよかったです。父から受け継いでいるところですか? 頭脳は全く受け継がれず、歯が大きいところくらいかな(笑)」
由依子さんはこう語るが、父や、自宅でバイオリンを教えていた母親からは、探究心を受け継いだようだ。
「隣に住む幼なじみの家に毎日のように遊びに行っていたんですが、昼の3時ぴったりに、その家のおばあちゃんが手作りのお菓子を振る舞ってくれたんです。アップルパイやブルーベリータルトとか食べたことがないものばかりで、すごくおいしくて母に『おばあちゃんに作り方を聞いて、お母さんも作ってよ』とせがみました」
それがお菓子との出合いで、レシピ本を見るために図書館に行っては“これは!”と思うものを友人たちと作った。ただし、レシピどおりではなく、勝手にアレンジしてしまうために失敗も多くて上達はイマイチ。
「スポンジケーキが膨らまなくてもクリームを塗ってごまかしたりしました。ゼリーを作るとき、キウイを入れて固まるのを何時間も待ったことも。キウイの酵素でゼラチンが固まらなくなることは、だいぶ後になって知りました」
お菓子や料理に興味を抱き、同志社女子大学生活科学部食物栄養科学科に進学した。
「大学では茶道部に入部しましたが、お菓子を食べるのが目的で、活動はグルメ部に近かったです。高校生まで外食はほとんどしたことがなく、初めて懐石料理を食べたときは感動したし、イタリアンでは何種類もパスタがあることにびっくり。
和食は味付けが予想できたが、フランス料理になると“どうやったらこんな味になるんやろ”と不思議でたまらなかった。そんなこともあり、就職活動をせず、料理の勉強・海外住まい・一人暮らしという3つの夢をかなえるため、フランスの料理学校、ル・コルドン・ブルーへ留学することに。
「1年間のコースで授業料が200万円以上、生活費や寮費を合わせると負担も大きいですが、母は応援してくれました。父も反対しませんでしたが、うれしそうではありませんでした(笑)」
渡仏後に語学学校に通うも、日本人留学生が多かったために、フランス語はあまり上達しなかったが、なんとか料理用語だけは学んで無事に卒業。
「気に入ったレストランで働かせてもらったり、日々、頭は食のことでいっぱいでした」
帰国後はフランス料理店でアルバイトしながら、自宅で料理教室を開いた。
「でも、現地でおいしかった料理が、日本ではそれほど感動しないんです。食材や気候風土の違いかと思いました。逆に和食の美しさ、おいしさに改めて気づきました」
生活できるほどの収入もないままフワフワした生活を送っていたときに再会したのが、夫となる良和さん。数年前から母のバイオリン仲間だったのだ。良和さんは由依子さんの印象を「かわいらしい人やな」と語るものの、由依子さんは、
「バイオリンに来る人は日曜日の朝からガチャガチャやるし、ゆっくりできないので、あんまりやったんです」
そんなある日、由依子さんの自転車が撤去されてしまった。遠くの保管場所に取りに行くことになり、大きな車を持っている知人が良和さんだったのだ。
「話すと意外に面白い人」で、交際がスタート。
「結婚するなら、母が生きているうちに」とプロポーズされたが、23歳と若く、社会人経験もない娘を心配したのは父だった。
「『お商売の家は大変や』と心配して、主人にも『お店の具合はどうなんや?』と聞いていました。そのときは『大丈夫です』と答えていたし、『お店のことは手伝わんでええから』と約束してくれはったんです」
交際開始から4カ月後の2001年に執り行った結婚式を見届け、紀美子さんは58歳で亡くなった。
■長男の誕生直後に夫が脳腫瘍で倒れて……
結婚後、しばらく続けたフランス料理教室をやめて専業主婦となったとき、時間を持て余し、店に顔を出すようになった。
「店には年配の女性がたまにいらっしゃるくらいで、ひまでした。賞味期限が切れたお菓子のロスもあるし“商売は大丈夫なんか?”という不安も」
そんなとき、1年間、京都府菓子工業組合の訓練校に通うことに。あんこの作り方も知らなかったが、歴史や作り方を学び、探究心がむくむくと芽生えてきた。そこで目をつけたのが、懐中しるこ。お湯を注ぐとお汁粉になる、昔からの定番商品だ。
「京都では暑いときに熱いものを食べるのが暑気払いとされているので、夏のお菓子なんです。でも“こんなん冬のほうが絶対おいしいやん”って思って」
ふと小さいときに好きだった、中にキラキラしたハートや星が入った卵形のチョコレート菓子を思い出した。
「冬に懐中しるこを楽しむなら、梅が出たら大吉とか、お正月らしくおみくじを絡めたらワクワクするって、一人で盛り上がりました」
自信満々でビルの5階にある製造部にアイデアを持ち込むため、当時50代で、19歳から亀屋良長で働く職長の山下順一さんに声をかけると……。
「白衣姿でキリッとしているし、ボディビルで鍛えていたから、見た目も怖い。でも、いいアイデアやし聞いてくれるはずと思っていたんです」
ところが山下さんからは「そんなん無理や!」「できへん」と一蹴されてしまった。良和さんが振り返る。
「ちょっと言い方が……。職人はプライドを持って仕事をしているのに、日ごろのコミュニケーションをとらないうちから、いきなり『こんなのが売れると思うんです』と持ち込んでも、何も知らない小娘がと思われて聞いてもらえません」
良和さんに話しかけるタイミングなどをアドバイスしてもらい、なんとか試作品までたどり着いた。
「うまくいかなかった部分もありましたが、だいたいイメージに近いものにしてくれて、パッケージも自分なりに考えました」
2004年にリニューアルしたおみくじ付き懐中しるこ「宝入船」は、三越のバイヤーの目に留まり、全国で販売されたのだった。
「職長さんはビギナーズラックくらいに思っていたのかも。相変わらず塩対応が続きました(笑)」
(取材・文:小野建史)