「芝居がしたくて、この世界に入ったけど、今はこっちも楽しいですね。去年、『笑点』(日本テレビ系)で『ひとり甲子園』を演じたところ、それを見た関係者の方にお話をいただきました。

今までファンの人と一緒の時間を過ごす機会がなかったから、うれしいですよ」

還暦を過ぎても、柳沢慎吾(63)の挑戦は終わらない。9月21日から2日間、初の単独ライブ「THE 柳沢慎吾劇場」を開催する。チケットには申し込みが殺到。追加公演も即完売した。弱肉強食の芸能界で、柳沢は46年間も人気を保ち続けてきた。その秘訣は何か。

「いやいや、人気なんてないですよ。ただの63歳のおっさんです。芸能界ってどんどん新しい人が出てきますから、大変ですよ」

その軌跡をたどると、彼が生き残っている理由が判明するかもしれない。1962年3月6日、柳沢慎吾は神奈川県小田原市に誕生。青果店を営む両親、4歳年上の姉に囲まれ、幼少期を過ごした。

「小学生のころから『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)が好きで、よくテープレコーダーに録っていました。

ビデオがないから、映像は1回で目に焼き付けて、録音を繰り返し聴いてました。自分で1人何役もやって、そのシーンを再現してね。そしたら、ふすまを挟んだ横の部屋から『静かにしろ!』と父ちゃんに怒鳴られるんですよ(笑)。母ちゃんには『勉強もそのぐらい熱心にしなさい』って」

瞬時に人の特徴を把握し、一つの出来事をあらゆる角度から再現する。その技術は中学生になると、さらに進化を遂げる。’76年、姉と高校野球の神奈川県大会決勝を観戦。帰宅後、4人で夕食をとっていると、姉が「ほら、見せてあげな」と促した。「何を?」と戸惑っていると、「ブラスバンド」とつぶやいた。

「『♪T・O・K・A・I 東海相模!』とマネしたら父ちゃんがほほ笑むのよ。そしたら、姉ちゃんが『バッター!』『ピッチャー!』と次々と指示を出すわけ。そのうち『監督!』『そり込みの入った応援団!』って言い出したの。全部やりましたよ。

『ひとり甲子園』はお姉ちゃんのプロデュースなんです」

姉は、類いまれな弟の才能に気づいていた。’77年、クラスメートが勝手に応募した『ぎんざNOW!』(TBS系)の「素人コメディアン道場」で第19代チャンピオンに輝くも、役者を志して「劇団ひまわり」に所属。’79年12月には、『3年B組金八先生』(TBS系)で他校の不良生徒役として出演し、本格的な俳優デビューを果たした。『金八先生II』からのオファーもあったが、同じ’80年10月開始の『翔んだカップル』(フジテレビ系)を選択。コメディ要素の強い学園ドラマだったが、すぐに登場シーン激減の危機が訪れる。

「僕は声もガラガラだし、何言ってるか聞こえづらい。スタッフは『5話以降は扱いを小さくしよう』と話していたらしいです。そのころ、『なんかできる?』と聞かれて、『もんたよしのりさんのまねでダンシング・オールナイト歌えます』とアピールしたら、回想シーンで採用された。そしたら、大ウケして『太陽にほえろ!』のパロディにつながり、次作の『翔んだライバル』では主演に抜擢されました」

■『ふぞろいの林檎たち』でブレーク、八面六臂の活躍で「天狗になっていました」

チャンスを生かしたことで、運命が好転していく。’83年、『ふぞろいの林檎たち』(TBS系)のオーディションに合格し、落ちこぼれ大学生の西寺実を演じた。敬愛の意味を込め、柳沢を“先生”と呼ぶ谷本綾子役の中島唱子が話す。

「(中井貴一など主要キャストの)8人が同じ楽屋だったんですね。

柳沢先生は、新人で高校生の私にもすごく気を使ってくれて、輪の中に入れるようなムードを作ってくれました」

第5話では、中島が柳沢をビンタする場面が2度あった。

「スタッフから『リハーサルも本番も全部本気でやれ』と言われていたから、10回くらい思いっきりたたいていたんです。当時は加減の仕方もわからない。柳沢先生の顔がゆがんだみたいで、ADさんから注意されました。でも、本人からは何も言われませんでした」

’83年末、柳沢は「植物園」という事務所で小山明子のマネージャーから「2人で一緒にやらないか」と誘いを受ける。数週間後、返事を迫られた彼は承諾し、劇団ひまわりを退団。大手事務所が立ち並ぶ芸能界において個人事務所を設立し奮迅の活躍を見せた。

「大変でしたよ。でも、当時はテレビが強くて、プロデューサーが『柳沢慎吾じゃなきゃダメだ』と熱意を持って、ブッキングしてくれた。僕にも勢いがあった。事務所にはその後、高橋ひとみも入ってきて、徐々に拡大していきました」

’84年は連続ドラマ4本、映画2本に加え、『笑っていいとも!』(フジテレビ系)のレギュラーも務めた。翌年も『ふぞろいの林檎たちII』をはじめ八面の活躍を見せた。

「天狗になっていましたね。『ジュース持ってきて!』とお願いして、好みと違うものがくると、『ちょっと! パインじゃなくて、ストロベリー』とかね」

そのころ、六本木アマンドの裏にある美容室に通っていた柳沢は4歳年下の一人の女性と出会う。

「前の担当者が結婚退職して、新しい人になったんですよ。シャンプーのとき、『春なのにどこも行かないの?』と聞いたら、『誰も誘ってくれないんですよ』と言うので、自分に気があるのかなと勘違いして、声を掛けたんですよね」

程なくして、2人は交際を始める。だが、柳沢のスケジュールは朝から晩まで仕事で埋まっていた。

「キツかったですね。あのころ、ドラマを4?5本掛け持ちしていた。20代で遊びたい盛りなのに撮影が終わっても家に帰ってセリフを覚えなきゃいけない。『もう嫌だ。芸能界なんてやめたい』とイライラがたまっていきました。眉間にシワを寄せて、一夜漬けで台本読んでも、頭に入らないんですよ」

NHK連続テレビ小説『はね駒』で、福島生まれの橘嘉助(柳沢)が「もっと世界を見なきゃダメなんだよ。都に行ってよ」と力説するシーンがあった。

だが、その「都」の言葉が出てこない。すると、母親役の樹木希林がフォローした。

柳沢:あそこに行ってよ。
希林:あそこって、どこだい?
柳沢:あそこだよ。
希林:都かい?
柳沢:お~、都に行ってよ。

ディレクターが「はい、もう一回いきます!」とNGを出した。すると、希林が助け舟を出した。

「いいんじゃない? 舞い上がってる設定だから、私が『都』と言っても大丈夫だと思う」

NGはOKに覆った。収録が終わると、希林が「今日車で来てる? ウチまで送ってよ」と柳沢に声を掛けた。2人きりの車内でアラベスクの『今夜もロック・ミー』を流していると、希林が「静かにしてくれる?」と促した。雨の降る夜道で、ワイパーの音が時を刻む。閑寂のなか、彼女が切り出した。

希林:もうやめようと思ってるんでしょ、この仕事。
柳沢:えっ……。なんでわかるんですか?
希林:顔を見ればわかるわよ。今、忙しいんだって?
柳沢:そうなんです。テンパっちゃって……。
希林:いつか必ず終わるから。好きで始めたなら、与えられた仕事は最後まで頑張りなさい。一日は早いよ。アッという間だから。

「希林さんの言葉で心のモヤモヤが晴れました。どんなにつらくても、いつか必ず終わるんだなって」

大女優の一言をきっかけに、柳沢は自分を取り戻す。’86年8月4日、『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に出演すると、笑いに厳しい黒柳徹子に凝視されながら、「ひとり甲子園」を10分以上熱演した。

「周りから『いい度胸してるな』って言われました。結構、プレッシャーが好きなんですよ。ギャグに厳しい徹子さんも笑ってくれました」

(取材・文:岡野誠)

【後編】《知られざる結婚生活33年》柳沢慎吾「妻の誕生日には毎年、赤いバラ50輪」1週間口を聞かない夫婦ゲンカもへ続く

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