【前編】《デフリンピックで注目》卓球・亀澤理穂選手「補聴器も髪の毛で隠していた」 少女時代の「クラスメートと共感できない」苦悩から続く

聴覚障害があるアスリートたちのオリンピック、デフリンピックが初めて日本で開催されている。注目選手の一人、卓球日本代表の亀澤理穂さん(35)は中学1年生のときに、デフリンピックの存在を知り、人生の目標に掲げてきたという。

これまで4大会に出場し、メダルを8個も獲得した彼女だったが、引退・出産後に競技復帰を決断した陰には、家族の強い絆の物語があった――。

9月20日、埼玉県障害者交流センターで「第48回全国ろうあ者卓球選手権大会予選会」が行われた。

デフ卓球のルールは、オリンピックを含む国際ルールと基本的に同じで、1ゲーム11点制だ。予選会は、3ゲーム先取で勝利となる5ゲームマッチで行われ、亀澤理穂さんは準々決勝で百目木綾乃選手(RISE仙台.D)と対戦。

赤と黒のユニフォームで登場した理穂さんは出だしの動きが硬く、第1ゲームを落としてしまう。だが1分間の休憩中、スマホで録画していた動画ですぐに動作を確認。第2ゲームから調子を上げ、その後は連取して逆転勝ちした。

試合後は、お互い一礼して握手。そして左の手のひらを胸の前で下に向け、その甲に、開いた右手を立ててトンと重ねた。「ありがとうございました」の手話である。

父・真二さん(62・デフリンピック日本代表元監督)によれば、卓球選手はボールの音に反応して動くため、聴覚障害があると「2~3センチ対応が遅れる」ことがある。

だから聴覚障害がある人も「聴者の大会に出場できますが、全日本選手権などで上位に入るのは難しい」と真二さんは話す。

理穂さんによれば、卓球を始めた小1から中1までの時期は「目標もなく、サボることも多かった」という。そんな彼女の「目の色が変わった」のは中1のとき、’97年コペンハーゲン、’01年ローマ、両デフリンピック金メダリストの松島京子さん(50・デフリンピック女子日本代表監督)の講演を聞いてから。

「講演でデフリンピックの存在を初めて知りました。“聞こえない人のオリンピック”で、オリンピック・パラリンピック同様の“最高の国際大会”だと。そのおかげで『将来、デフリンピックで金メダルを取りたい』という目標ができたのです」(理穂さん)

そして中2から名門・淑徳学園中・高(現・小石川淑徳学園中・高)に転校。そこから「デフアスリートとしての卓球漬けの日々」が始まったのだ。

真二さんは「一流選手になるには2万3千時間の練習が必要」と話すが、1日6時間、年間350日練習しても10年以上かかる。さらにデフアスリートは聴覚障害がない人と同じ内容を修得するのに時間を要するとされる。

理穂さんは高校卒業後、厳しい練習で知られる東京富士大学に進学。ここには前出の南方さんもいて、励みになったという。

「理穂はよく『規則が厳しく練習もつらい。行きたくないけどみんな頑張っているから行かなきゃ!』と私に言っていました。

自宅通いだったので、夜遅くに帰宅して、朝早く家を出る毎日。寮生だった私と違い、孤独も感じて余計につらかったと思います」(友人で現デフリンピック卓球日本代表女子コーチの南方萌さん)

理穂さんが当時を振り返る。

「先輩も後輩も本場・中国から来ていたり、インターハイ優勝など強豪ぞろいでした。私とは差があって、ついていくのに必死でした。さらに『携帯禁止』『恋愛禁止』『髪留め・ピン留め禁止』などルールに縛られて、つらかった」

だがそんな日々を耐え抜き、’09年にデフリンピック初出場、団体銀、個人銅とメダルを獲得したのだ。

「大学では苦しい思い出ばかりでしたが、あの苦しみがあったからこそ『デフリンピックで金メダルを』という初心が、今日まで継続しているんです!」

■両親も支えてくれた育児をしながらの競技生活

’17年、理穂さんは同じデフ卓球選手と結婚し、引退。そして’19年1月15日、長女・結莉ちゃんを出産して母となった。

「帝王切開での出産で、補聴器は禁止だったのですが、私は『産声を聴きたい!』とお願いして、特別に許可してもらいました。無事に生まれて大きな泣き声を聴けたのがうれしかったんです」

喜びも束の間、仕事に育児が加わる「重みに気づいた」という。当時在籍していた会社は、選手としての待遇の考慮はなかった。

「フルタイム勤務のうえ、用具費、遠征費の補助はなく、長期遠征は有給休暇を使っていました」

有休がなくなれば「欠勤」扱いで、その日は無給。

「月給が1桁になった月もありました」

育休を取得して子育てに臨んだが、聴覚障害がある分、やはり時間も手間もかかった。

母・千里さん(63)によれば、

「理穂は出産後、すぐウチ(実家)に来ました。夜中に赤ちゃんが泣いても、理穂は聞こえずに起きないのが心配でした。そんなときは私が起きて、理穂を起こしに行ったんです」

理穂さんは、出産直後は実家に5カ月ほどいたが、その後は親の手を借りずに育児をすることに決めたという。

「私がなにか手伝おうとすると、『ここにいたら息が詰まる。監視されているみたい』と理穂が言うんです。私は『産後うつ』なんじゃないかと気がかりでした」

実家を飛び出してみると「困難が身に迫った」と理穂さん。その困難とは「娘がなぜ泣いているのか、わからない」こと。

「聴者のママ友は、泣き声でどんな状態かある程度判断できるといいます。でも私には、ただの泣き声にしか聞こえないんです。

娘に言葉が増えてからも、泣きながらなにか頑張って話しているのに、私は聞き取れないもどかしさがありました。『もう一回言って!』と伝えても、泣き方がさらにひどくなるだけで……」

母は「産後うつ」を案じていたが、当人は「そういうわけじゃなかった」と意外にあっけらかん。

「実家を出たのは私の性格のためです。

やってみなきゃわからないんだから、『とにかくやってみよう』と」

彼女はそのポジティブ思考で、ついに「競技復帰」を思い立った。

「’17年のデフリンピック(トルコ開催)で世界の壁を痛感したのが、引退の理由でした。でも出産後、バレーボールの荒木絵里香さん(41)の特集をテレビで見たんです。出産後に復帰し、’21年の東京オリンピック代表になった荒木さんに『すごい!』と憧れたのと同時に『“忘れ物”を取りに行かなきゃ!』と、われに返りました」

親に打ち明けると、父は「賛成」してくれたが、母は……。

「私は『大反対!』でした。選手ってことは子の成長を半分しか見られないんです。夫が出張ばかりで、私は大変でしたから。『結莉が熱を出しても合宿中だったら帰ってこられないでしょ!』と猛反対しました」(千里さん)

理穂さんはLINEでこう返した。

《ママが理解してくれず、協力もしてくれないのであれば、友だちやベビーシッターさんにお願いしてでも、やります!》

そんな心意気に運命が味方してくれたのだろうか、理穂さんは障害者スポーツに理解のある就職先の内定を取り付ける。それが、’22年に入社した住友電設だ。

同社初の「パラアスリート雇用」で、総務部に在籍しながら、選手生活を中心としたワーク・ライフ・バランスを保てる雇用形態だったのだ。

理穂さんは毎朝、結莉ちゃんを保育園に送り、家事をすませてから会社や練習に向かった。

帰宅後に夕食をいっしょに取り、寝かせてから自身の競技の研究をするため、寝るのは深夜に。両親は「少しでもそのサポートを」と努めた。

「保育園の送り迎えを私たち祖父母でしたり、運動会に行ったりしたこともあります。結莉が小学生になったいま、理穂の帰りが遅い日は、(理穂さん宅から徒歩5分の)ウチに泊めたりもしています」(千里さん)

育児と競技、仕事の“三刀流”は一筋縄ではいかないが、両親の手助けで理穂さんの気持ちも上向いた。

「娘が熱を出せば、練習の予定も変更になります。でもそれを後ろ向きに思うのではなく、『練習がなくなって休養できたから疲れがとれた』とか、『必ずプラスの効果がある、いいほうに転ぶ!』と考えるようにしています」

その発想の転換は“父譲り”だ。

「父は『どんなピンチであっても対応できる』ことを教えてくれました。その指導がいまも生きています。いえ、これまで父に面と向かって感謝なんて伝えたことないんですが(笑)」

■母の教えは「とにかく、笑っとけ!」

9月の予選会決勝で、理穂さんは同じデフリンピック日本代表の山田萌心選手(17・明誠高校)に敗れ、準優勝に終わった。

11月のデフリンピック目前の“ストレート負け”は気になるところ。だがそれよりも、ほとんどの選手がベンチコーチを帯同するなか、理穂さんが休憩中は一人でプレーを振り返り、局面でのタイムアウトも取らなかったところが、記者には興味深かった。試合後、理穂さんにたずねると……。

「ベンチコーチをつけなかったのは、一人で闘ってみようと思ったからです。デフリンピック本戦も、タイムアウトは1分だけ。短時間で、いいアドバイスを得られなければ、結局自分でコントロールするしかない。本戦を見据えてのトライアルでした」

では、そこで得たものは?

「気持ちがまだまだ弱いなあと。あっ、得たものだから違うかっ!」

小首をかしげるように笑った。ピンチに動じない対応力が父・真二さん譲りだとすれば、その笑顔は紛れもなく、母・千里さんの教えの賜物だろう。

理穂さんの実家には、壁一面に家族の笑顔ばかり集めた写真が、たくさんピンナップされている。それは母が「いい写真が撮れたら随時更新している」コーナーだ。

「母は『とにかく、笑っとけ!』が口癖なんです。人は暗くなったり、悩んだりするものだけれど、『笑う門には福来る』と。私がどんなときも自然に笑顔でいられるのは、母の教育です」

では、その母はいつ、どうしてその心境に至ったのかというと。千里さんは「それは自分に言い聞かせてきたことでもあります」と次のように明かしてくれた。

「理穂の難聴がわかったときもそうでしたが、泣き虫でクヨクヨする私自身の性格が嫌でした。だから理穂には『つらくても笑顔で頑張れば大丈夫。幸せになれる!』と口に出して伝えてきたんです。でも理穂を見ていると、私なんかより全然立ち直りが早いですよ」

そう、理穂さんは本戦直前の敗戦でも、試合が終わった瞬間から、次の勝利の糧にしていた。とびきりの笑顔を見せながら――。

理穂さんが言う。

「本戦直前でも取材を受けたのは、デフリンピックの存在をより多くの方に認知してほしいからです。私も中1でデフリンピックの存在を知って、そこで初めて卓球と自分に向き合えたんですから」

そして金メダルという目標には、もうひとつ大事な理由がある。

「これまで娘といっしょにいてあげなきゃいけない時間を削って、練習や試合に専念してきました。結莉には申し訳なかったですが、それだけに結果を出して『卓球を続けさせてくれてありがとう』という感謝の気持ちを伝えたいと思っています」

東京体育館で行われるデフリンピック本戦では、理穂さんは11月18日の混合ダブルスから登場する。

「5度目の出場で初の金メダルを獲得するママの姿を、娘に見せてあげたい!」

苦しい場面はあるだろう。でもそんなとき、彼女は自分自身と、日本中にこう呼びかける。

とにかく、笑っとけ――。

(取材・文:鈴木利宗)

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