「いきなり、迫力満点の名刺ですみません!」

2月半ば、東京都台東区の谷中霊園入口にて。笑顔で差し出された和紙製の名刺には、時代劇などでよく目にする徳川家の象徴「葵の御紋」から始まり、筆文字風の書体で「第五代 徳川慶喜家 当主 山岸美喜」とある。

愛知県名古屋市在住の主婦、山岸美喜さん(57)は、江戸時代最後の将軍・徳川慶喜の玄孫で、現在12家ある徳川家の中でも筆頭格に位置する「徳川慶喜家」の第五代当主だ。

徳川家の初代は、現在放送中の大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する家康公。そこから約260年もの間、徳川家が将軍職を務める江戸幕府が続いたが、1867年、第十五代将軍の慶喜が政権を朝廷に返上。この“大政奉還”により武家政治が終わりを迎え、天皇親政への道が切り開かれた。日本人なら誰もが教科書で習う歴史だ。

「正式に徳川慶喜家祭祀継承者となりました(中略)心引き締め、慶喜家の絶家・墓じまいを進めていきたいと思います」

昨年10月、美喜さんによるXへの投稿は、歴史ファンだけでなく日本中の耳目を集めた。“祭祀継承者”とは、墓石、仏壇、位牌、家系図などの「祭祀財産」を引き継ぎ、先祖の供養や年忌法要を主宰・管理する人物のことを指す。

この日、取材班が訪れたのは絶家に伴う「墓じまい」の舞台となる慶喜公の墓。コンクリート塀で囲まれた約300坪の墓所は東京都の指定史跡でもあり、関係者以外の立ち入りが禁止されている。

「この古くなった塀の修理には3千万円はかかると言われ、私も墓の掃除だけで一日2万歩を歩いたことも。個人で維持するには、おのずと限界があるのです。正面中央が慶喜の墓です。

その左に祖父母と、私を第五代当主に指名した叔父が眠っています」

そう解説してくれながら、まずは慶喜公の墓にお参りする。

「二礼二拍手一礼しますが、柏手を打つとき音を立てないのが、わが一族の作法です」

「上円下方墳」という独特の形をした墓の背後には白梅も満開で、見上げれば冬の晴天の青空。先週までの大雪を思い出し「晴れ女ですか」と問えば、再び笑顔で「ハイ!」と言いながらピースサイン。

「私、このとおり、めちゃ普通の主婦なんですが、今回の家じまいをするようになって、まわりの人からも注目されたり、気を使ったりで、少し戸惑いもあります。それにしても、祭祀継承者になって、もう何度ここへ来たことでしょう。先祖たちも、『またおまえか』と驚いているかも(笑)」

叔父の遺言で思いがけず慶喜家当主に指名され、家じまいに取り組んではや10年近くが過ぎた。美喜さんが始めた家じまいには、多くの同世代女性が抱える相続などの悩み、さらには親族の納得を得るまでにかかった“8年もの歳月”という、歴史ある名家ならではの苦難もまた多かった。

■教科書の偉人は歴史上の人物ではなく、私にとって、一人の血の通った人間

美喜さんは1968年6月25日、東京都生まれ。父親は自動車メーカー勤務、母の安喜子さんは専業主婦、兄2人がいる末っ子だった。

「練馬区で生まれたあと、父の転勤に伴い飯塚や甲府、横浜など転校も続き、小中高と公立校でした。体を動かすのは苦手で、中学は帰宅部、高校は吹奏楽部。勉強も、はっきり言って嫌いでした」

慶喜家第三代当主・慶光と妻の和子さん。

和子さんの祖父は会津藩第九代藩主で、京都守護職なども務めた幕末の要人・松平容保。つまり、美喜さんは、慶喜の玄孫であると同時に、松平容保の玄孫でもあるのだ。

さて、中高生ともなると、歴史の授業で「慶喜」や「家康」の名も出てくると思うが、

「私にとって、教科書に出てくるのは歴史上の人物ではなく一人の血の通った人間、史実ではなく家族の物語でした。そもそも、『私だって歴代将軍の名前、全部言えないわよ』というのが本音。教室でも、慶喜の玄孫とはあえて言いませんでした。だいたいが信じてもらえませんし、徳川の名前が出ると、『えっ、埋蔵金があるの?』と、お金の話になってしまうのもイヤでしたので。そんなに財産はないですし、ふだんの生活を振り返っても、徳川家出身の母は、質素倹約を旨としていました」

「ただ、年に一度、わくわくするようなスペシャルイベントがあった」と美喜さんが話すのが、正月に家族で、妃が慶喜の孫である、高松宮両殿下へのご挨拶のため、御殿に伺うことだった。

「祖父の姉君が喜久子妃殿下でしたので。高松宮邸の大広間には美しいシャンデリアがあって、両殿下に新年の挨拶をすませて食堂へ行くと、お酒に国鳥のキジの肉が入った“おキジ酒”が振る舞われていました。皇族方のならわしがかいま見える雰囲気で、子供心に圧巻の美しさでした」

御殿に伺う前には、母・安喜子さんから厳しくこう告げられたという。

「子供は何かとやかましくするので、3つの言葉以外は話さないようにと。ご挨拶は『こんにちは』ではなく『ごきげんよう』、『ありがとう』は上から下に言う言葉だから『おそれいります』、何か声をかけたいときは『ごめんあそばせ』ですよ、と。

御殿では大人の世界に入らせてもらうのだから分をわきまえなさい、という考え。いまとなっては、とても大切な教えだと私も思います」

高校生の美喜さんは、こんな夢を抱いていた。

「もともと英語は好きで、小学校低学年のころから、英語劇なども夢中で取り組んでいました。また人とのコミュニケーションも好き。ですので高校を出るころには、貿易を通じて世界とつながる仕事をしたいと思うようになるんです」

英国留学し、語学学校や当時のロンドンシティカレッジに通いながら国際船舶貿易について学んだ。

「キッチンとお風呂は共同のアパートで、本当に、貧乏留学生活でした。食卓にはお肉もあまり上がらないほどで……」

夢を追って勉学にいそしむなか、のちに夫となる山岸直人さん(66)との運命の出会いが訪れる。

「ロンドンで接客業のアルバイトをしていた友人が、さまざまな会に誘ってくれるのですが、そこではごちそうにありつけるんですよ。その友人の紹介で出会ったのが今の主人です。9つ年上で、商社勤務の駐在員で、BMWに乗ってやってきて。まあ、かっこよく見えますよね(笑)」

3年間の留学を終えて帰国すると、すぐに外資系商社の秘書アシスタントとして働き始めたが、同じころ、直人さんとの結婚が決まる。’93年2月に結納、3月に入籍、5月に結婚式を挙げたのち、退社。

直人さんの仕事の関係で、再びロンドンでの生活となった。

■最愛の母が急逝。受け継がれたのは、「人として正義でありなさい」という教え

しかし結婚からわずか2年後、最愛の母・安喜子さんの危篤の報が届き、急ぎ帰国することになる。

「母は生まれつき体が弱く、私が中学生のころから腎臓の透析も始まり、体重も30キロを切っていたほど。私を留学に出すときも『これで美喜には会えないかもしれない』との思いで見送ってくれたのだと思います」

看取りには間に合ったが、’95年3月、脳幹出血により53歳という若さでこの世を去った安喜子さん。美喜さんはこう続ける。

「母は子供を持つことも、周囲から『病弱なのだから子供は1人のみ』と言われていました。どうしても女の子がほしくて、3人目まで無理して産んでいたのです。それが、私です」

母のその必死の思いを、美喜さんはいまこそよくわかるという。

「慶喜家の『葵の御紋』が入った母の着物。成人式のときに一度頼んだのですが、その際は『成人式ごときでは着せてあげられません』と、きっぱり言われていました。しかし結納でその着物を着せてもらい、さらに『帯留め』や『十三代今泉今右衛門の食器セット』を嫁入り道具としてもらったのです。

『病身の母が娘にしてあげられる最後のこと』と、大事にしまっておいてくれたんですね。着物、嫁入り道具もそうですが、たとえ男性社会であろうと『脈々と受け継がれてきた徳川の文化や生活の中のしきたりをつなぐのは女性である』との思いが母なりにあったはずです」

家の名に恥じぬよう質素倹約を心がけ、いつも「人として正義でありなさい」「大事なのは、今日のごはんが食べられて、雨露しのげて、健康であることよ」と口にしていた母。

その教えは、また愛娘に受け継がれてゆくのだった。

(取材・文:堀ノ内雅一)

【後編】「遺産目当てだろう」と嫌味、実父からも裁判寸前…慶喜家“最後の当主”の57歳主婦軋轢にも負けず“家じまい”に奔走する理由へ続く

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