2009年8月22日、大分県立竹田高校剣道部の主将だった工藤剣太さん(当時17歳)は、夏の合宿明けの稽古中に倒れ、その日のうちに亡くなった。死因は、重度の熱中症、いわゆる熱射病による多臓器不全だった。


 倒れる寸前まで過酷な稽古が続けられ、そのさなかには顧問による暴行もあった。剣太さんの異変が見過ごされ、命が守られなかったことは、後の裁判でも認定されている。

剣道部顧問の暴行、熱中症で息子を亡くして17年。「この裁判負...の画像はこちら >>
 あれから17年。この事件と、剣太さんの両親が挑んだ裁判は、社会に何を残したのか。そして、部活動をめぐる現場は、どう変わったのか。

 なかでも両親の闘いは、学校の部活動をめぐって顧問個人に賠償責任を負わせるという、それまでにない「前例」を残した。

 全国で初めてとされるこの司法判断を勝ち取るまでには、8年の歳月がかかった。その道のりと、事件が社会に残したものについて、剣太さんの母・奈美さん、父・英士さんに話を聞いた。

息子の死から4日後、証言を集め始めた両親

剣道部顧問の暴行、熱中症で息子を亡くして17年。「この裁判負けますよ」と言われても…両親の“8年の闘い”が残したもの
剣太さんに何が起きたかを伝える部員の証言を記録した資料
 剣太さんが倒れたあの日、いったい何が起きていたのか。両親は事故の直後から、部員たちの証言を集め、その状況を把握していた。

 事件当日、練習場の気温は36度に達していたという。その暑さのなか、防具を身につけ、剣太さんは長時間の稽古を課された。やがて体は限界を超え、動きは鈍り、意識ももうろうとしていく。
だが顧問は、その様子を「怠けている」「演技をしている」と受け取り、「演技するな」と言いながら暴行を加えた。往復のビンタは、10発を超えていたという。

 まじめで責任感の強い主将だった剣太さんは、決してサボるような性格ではなかった。体調の異変は、明らかに表れていた。それでも稽古は止まらず、倒れる寸前の剣太さんに、休息が与えられることはなかった。

 搬送された病院で測った体温は、病院の体温計で計測できる上限の42度を振り切っていた。お母さんによれば、処置にあたった医療者も、熱中症への対応に慣れている様子ではなかったという。「点滴を打てば治る」と説明されていたが、剣太さんの容体は急変。剣太さんはその日のうちに亡くなった。

 剣太さんが亡くなって、わずか4日後。両親は、証言を集めるために動き出した。我が子の死を受け入れることなど、とてもできない。
それでも、あの日、剣太さんに何が起きたのか。その真相を明らかにすることだけを考えていた。

 お父さんが菓子折りを持って部員の家を一軒ずつ訪ね、親御さんが同席するなかで、録音をしながら当時の状況を聞き取っていく。持ち帰った録音を、お母さんが一つひとつ文字に起こす。学校事故では、時間が経つほど記憶は薄れ、証言も集めにくくなる。早い段階で動けたことが、後の裁判を大きく支えることになった。

 だが、その作業は、両親にとって何よりつらいものだったという。我が子が倒れ、暴力をふるわれる様子を、他人の口から繰り返し聞かされる。証言してくれる部員のなかには、話しながら泣き出す子もいた。「話せません」と口を閉ざす子もいた。それでも両親は、証言を集め続けた。

公務員個人に賠償責任を負わせる難しさ

 こうして両親は、あの日の真相を証言によって明らかにしていったが、その先には大きな壁が立ちはだかっていた。

 部活動の指導中に、たとえ顧問が生徒に暴力をふるったとしても、その顧問個人に賠償を払わせるのは、極めて難しい。
公立学校の教員は公務員であり、原則として国家賠償法という法律によって、賠償の責任は公務員個人ではなく、県や市といった自治体が肩代わりすることになっているからだ。

 つまり、どれだけ理不尽な指導で子どもが傷つけられても、民事で訴えて勝った場合でも、支払うのは自治体。つまりは市民の税金が使われる。加害教員本人は、金銭的な責任を問われることがない。

 剣太さんの事件も、そうだった。剣太さんに対する暴行は、傷害事件と呼んでもおかしくないものだった。それでも刑事では不起訴になった。顧問、副顧問、剣太さんを竹田高校へ異動させた教育委員会、搬送先の医療。責任の所在が複数にまたがり、「誰か一人の罪」として立件しにくかったのだ。

 だが両親は、ある一つのことを、最初から最後まで訴え続けた。

 「部活動っていう環境で、唯一まともに判断できる大人は、顧問と副顧問だけなんよ。どう考えても、その人たちに非があるやろ」

 ただ、その顧問自身が、暴行の当事者だった。
冷静さを失った顧問に代わって、唯一その場を止められたのは、副顧問だったはずだ。それでも、副顧問は動かなかった。

「負けてもいい」挑んだのは“前例なき闘い”だった

剣道部顧問の暴行、熱中症で息子を亡くして17年。「この裁判負けますよ」と言われても…両親の“8年の闘い”が残したもの
2024年には事件のあった竹田高校での講話が実現した
 両親がまず起こしたのは、大分県や豊後大野市(病院)そして顧問と副顧問などに損害賠償を求める裁判だった。一審では、県と病院の責任は認められた。だが、顧問と副顧問については、国家賠償法という法律の壁に阻まれた。

 公務員である教員は、職務上の行為であれば、賠償の責任を個人としては負わず、自治体が肩代わりすることになっているからだ。つまり、暴行を加えた顧問その人に、責任を負わせることができない。

 両親は、それでも顧問個人の責任を問うことを諦めず、控訴に踏み切った。担当した徳田靖之弁護士からは「この裁判は、負けますよ」と正直に告げられた。それでも両親は、「負けてもいいから、とことんやりたい」と引かなかった。

 弁護士にとって、負けがわかっている裁判を引き受けるのは、決して簡単なことではない。それでも、両親の覚悟を受け止めた徳田弁護士は、「こちらも、腹をくくりましょう」と言って、勝ち目の薄い闘いに、ともに臨んでくれたという。

 そして、この裁判のなかで両親がたどり着いたのが、「求償権」という仕組みだった。
国家賠償法には、公務員に「故意または重大な過失」があった場合に限り、賠償金を肩代わりした自治体が、あとからその公務員個人に請求できるという定めがある。

 ただし、この請求をするかどうかは、自治体の判断に委ねられている。そこで両親は、求償権を行使しない大分県に対して、「顧問に賠償を求めよ」と迫る住民訴訟を起こした。県を通じて、顧問個人に責任を負わせる方法を選んだのだ。

 だが、前例のない挑戦に、周囲の反応は厳しかった。「そんなものは前例がない」「勝てるわけがない」と言われたという。それでも両親は、引かなかった。

 結果は、8年に及ぶ闘いの末の勝訴だった。2017年、福岡高裁は元顧問の「重大な過失」を認め、県に100万円の求償を命じた一審判決を支持し、県側の控訴を退けた。弁護団によれば、公立学校の教員に対して賠償金の支払いを求めるよう自治体に命じた高裁判決は、全国で初めてだったという。

「金額の問題やないんよ。あの人(顧問)が、自分の財布から、自分のやったことの責任を払った。
その事実が欲しかった」

剣太さんの死から17年、部活動の現場は変わったのか

剣道部顧問の暴行、熱中症で息子を亡くして17年。「この裁判負けますよ」と言われても…両親の“8年の闘い”が残したもの
剣太さんが幼少期、自転車で訪れて弟と遊んだ久住山
 では、部活動の現場そのものは、この17年でどう変わったのか。大分県のある県立高校で働いている教員に話を聞いた。

「竹田高校の事件は、当時、大分で大きな話題になった。それ以降、熱中症への対応も、問題のある顧問への対応も、格段に厳しくなったと思う」

 実際に、対応が変わったと感じた出来事があるという。ある部活動に、生徒を精神的に追い詰めるような指導をする顧問がいた。それを管理職に伝えたところ、数か月後、その顧問は、その部活動のない学校へ異動になったという。

 かつては、昭和的な指導を当たり前とする世代が、現場でまだ力を持っていた。だが今、そうした指導者は少数派になり、周囲が「それはもうアウトですよ」と言える空気に変わりつつある。

 その変化のきっかけの一つは、間違いなく、剣太さんの事件だった。

両親が今、“教師や指導者を目指す学生”に伝えたいこと

剣道部顧問の暴行、熱中症で息子を亡くして17年。「この裁判負けますよ」と言われても…両親の“8年の闘い”が残したもの
2017年7月1日に日本体育大学で講演をする工藤家族
 そうした変化を、少しずつ後押ししてきたのが、両親の活動だ。二人は事件のあと、全国各地で講演を続けてきた。そして今、語りかける相手が、以前とは変わってきている。

 かつては現役の教師や学校職員に向けて話すことが多かったが、いま力を入れているのは、これから教師や指導者になる可能性がある大学生に語ることだ。これから教師や指導者になる世代にこそ、早いうちに知っておいてほしいという思いからだ。

 講演は、思いがけない広がりを見せているという。両親の話に耳を傾けるのは、教師や指導者を志す学生だけではない。ある大学での講演のあと、一人の学生が奈美さんに声をかけてきた。将来、葬儀の仕事に就くという学生だった。

「剣太さんの葬儀の話を聞いて、ちゃんと寄り添える葬儀屋さんになりたいと思いました」

 剣太さんの物語は、さまざまな立場の若者の心に届き、それぞれが進む道に影響を与えている。

「先生になる子だけやなくて、そういう子にも伝わるんやって。なんか、嬉しかったね」

「子を失う親を一人でも減らしたい」17年後も語り続ける理由

剣道部顧問の暴行、熱中症で息子を亡くして17年。「この裁判負けますよ」と言われても…両親の“8年の闘い”が残したもの
中学校の校門前で、仲良しの友達数名との写真に写る中学3年生(15歳)の剣太さん
 あれから17年。両親の闘いは、求償権という前例で、加害教員個人に責任を負わせる道を切り開いた。それだけでなく、この事件を通して、教師や保護者、そして子どもたち自身が、熱中症の危険を知り、考えるようになった。

 奈美さんは、この闘いを自分たち夫婦だけの力で成し遂げたとは思っていない。

「私たち二人だけでやっていたら、とてもここまで来られんかった」

 事件のあと、「剣太の会」が有志によって立ち上げられた。裁判から両親の講演活動まで、その歩みのすべてに寄り添い、支えてくれた人たちだ。

剣道部顧問の暴行、熱中症で息子を亡くして17年。「この裁判負けますよ」と言われても…両親の“8年の闘い”が残したもの
兄弟のように密に、仲良く育ってきた従兄弟たち
 だが、力を貸してくれたのは、会の人たちだけではない。数えきれないほど多くの人が支えてくれた。その一人ひとりの力があって、ここまで闘ってこれたのだと、奈美さんは繰り返す。

 その中心には夫婦としての強い思いがあった。暴行を加えた顧問に、責任を負わせる。その一点だけは、どうしても諦められなかった。これほど長く闘い続けてこられたのは、奈美さんのなかに、一つの願いがあったからだ。

「子どもを失って悲しむような親や家族を、一人でも減らしたい。それに尽きるんよ」

 我が子を失った悲しみは、17年が経っても、少しも薄れることはない。だからこそ、同じ思いをする家族を、これ以上、増やしたくない。その一心で、両親は闘い、語り続けてきた。

 いまも部活動やスポーツ指導の現場では、熱中症による事故や、行きすぎた指導に苦しむ子どもが、まだなくなってはいない。その現実があるからこそ、両親は犠牲が少しでも減ることを願って、今日も講演の場に立ち続けている。

<取材・文/菅原春二>
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