
東アフリカ、タンザニア連合共和国に属するザンジバル島は、かつてイギリスの保護国だった。1946年9月5日、クイーンのボーカリスト「フレディ・マーキュリー」はその島で産声を上げた。
現在『アフリカのハワイ』と呼ばれ、リゾート地としても人気が上昇しているザンジバル島は、フレディ・マーキュリーのファンなら見逃せない場所がある。
彼の生家が『マーキュリー・ハウス』として残されているのだ。
【ザンジバル島に生まれた幼いスター】
昨年公開された映画『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒット、アカデミー賞各省を受賞し、現在、クイーンおよびフレディは再び注目を浴びている。
フレディの生家はストーン・タウンのケニヤッタ・ロードにある。
フレディの父親は植民地政府の会計係として仕事を続ける為、妻のジャーとともにザンジバル島のストーン・タウンに引っ越してきた。
そこで1946年、フレディが誕生する。出生時の名前はファルーク・バルサラ。彼は幼い頃、ゾロアスター教徒であった母ジャーに連れられて近所の寺院を礼拝していたのではないかと言われている。
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Freddy Mercury House,Stonetown (Zanzibar),
【幼少期をインドの寄宿学校で過ごし、音楽に目覚める】
フレディは幼少期の大半をインドで過ごしている。
1954年、8歳のフレディはインド・ムンバイにある全寮制の英国式寄宿学校「セント・ペーターズ・ボーイズ・スクール」に進学の為島を離れる。彼がピアノを始めたのはその少し前である。
フレディはこの頃から複数のロックバンドで活動し、ピアノとヴォーカルを担当していた。
12歳で、スクールバンドの「ザ・ヘクティクス」を結成。
当時の友人は、フレディのことを「ラジオを聴き、その後で聴いた曲をピアノで再現する、異様な能力を持っていた」と述懐している。
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【再びザンジバル島へ戻るも翌年イギリスへ】
1963年フレディはザンジバルに戻り、つかの間の家族とのだんらんを過ごすこととなる。
しかし翌年にザンジバル革命が起き、たくさんの被害者がでたため、身の危険を感じた一家は安全上の理由でイギリスへと引っ越すことになった。
【現在もアパートとして使用されているマーキュリー・ハウス】
『マーキュリー・ハウス』の建物は現在もアパートとして使われており観光客が中に入ることはできないそうだが、建物の窓などにはフレディー・マーキュリーの写真が飾られている。
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image credit:Wikimedia
この地で彼が育んだものはどんなものだったのか我々に知る由はないが、訪れることで感じられる何かがあるかもしれない。
愛のために生きた生粋のスターであるフレディの人生を弔う人々が遠方からもやってくるとのことだ。
References: Freddie Mercury/YouTube/など / written by kokarimushi / edited by parumo
記事全文はこちら:フレディ・マーキュリーはここで生まれた。タンザニア、ザンジバル島にある『マーキュリー・ハウス』 http://karapaia.com/archives/52272392.html
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