フィクションのパラドックス。人はなぜ作り話に魅了されるのか?
フィクションに心揺さぶられる理由 Comfreak from Pixabay
 物語は自分以外の人生を体験させてくれる。小説や映画、漫画やアニメから緊張と緩和を、そして人生の大切な教訓を学んだことがある人も多いだろう。


 不思議なことに、私たちは作り話だったとしてもそれを迫真のものとして受け止める。そこに登場する人物がどこかで本当に生きており、その人物の身に起きたことを、本当にあったものとして感情移入することができるのだ。

 これを「フィクションのパラドックス」という。はたしてなぜ私たちはただの作り話で感情が揺さぶられるのだろうか?

脳は現実と虚構を区別できない その答えは簡単だ。私たちの脳は、現実と作り話を区別して認識することができないからだ。だから作り話であっても、本当の話として反応する。

 その一方、小さな子供のうちから物語の虚構の部分を理性的に扱うこともでき、現実の話と可能性の話と空想の話を区別している。

 だから物語形式でダーウィンの進化論を論じることもできるし、作り話によって愛と死、正義、冒険、家族の諍い、乗り越えるべき困難といった普遍的なテーマを語ることもできる。

 だからこそ、私たちはよくできたお話が大好きなのだろう。

 人工甘味料が脳を騙して砂糖を食べていると思わせるように、物語は私たちの自然な傾向を利用して、現実の人間を知りたいという気持ちにさせる。現実社会の生き方を学ぼうという気にさせる。不思議の国のアリスのような荒唐無稽なものであってもそうなのだ。


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photo by iStock / Patiya Singtojaroenpaisan
身の回りにある現実的な非現実 現実とフィクションを区別できないことを示すちょっとした証明もある。

 たとえば、子供は人形が生きていると信じることがある。動物だって、写真に対して本物に見せるのと同じような反応を示すことがある。

 街に出れば、広告など、人間の顔がいたるところにあるが、私たちはそれをインクであることなど忘れている。

 人間は現実とそれを表したものを区別するようには進化していないのだ。どちらもまったく同じ認知メカニズムによって解釈されている。

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Lars_Nissen from Pixabay
分かっていても騙される脳 ちなみに前頭前皮質をはじめとする脳の理性的な部分は、目の前にあるもの(あるいは読んでいるもの)が現実ではないということをよく分かっている。

 「ミュラー・リヤー錯視」という、矢羽の向きが異なる並行に引かれた2本の直線を見れば、そのことを身をもって体験できる。

 おそらく大体の人なら見たことがあるだろう錯視で、それらの直線がじつは同じ長さであることを知っている。それなのに、どうやっても同じ長さには見えない。

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image by:wikimedia commons
 錯視が脳を騙す仕組みを説明してもらっても、脳は相変わらず騙され続ける。こうした二重の知識は、架空の物語を読んでいるときにも起きているものだ。
感情が認知に影響する 脳の認知を司る領域は、感情とも密接に結びついている。そのために、感情は私たちを特定の行動をとるよう動機づけるし、世界の解釈を無理やり違うものにしたりする。

 たとえば2011年の研究によれば、恐怖は視覚に影響する。気分によって錯視の見え方が変わるし、欲求によってゴールに置かれている物体の大きさが違って見えることもあるという。

 その研究は、感情は「予測された行動の不利益と利益」についての情報をもたらしていると説明している。その情報は特に考えることなく速やかに利用される。このおかげで、「ある行動をとった場合に起こりうる結果をわざわざ熟慮しなくても済む」のだという。

 そうしたわけで、フィクションのパラドックスは起こる。自分自身にこれはただの映画だと言い聞かせたところで、せいぜい多少その刺激が薄れる程度の効果しかない。脳はそれを現実だと信じるよりほかないのだ。

References:Paradox of fiction / nautil/ written by hiroching / edited by parumo

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