汁物大好きな三杯目 J Soup Brothersです!FU~FU~☆彡今回は山科区、九条山にある江戸時代の刑場跡。NHK大河ドラマでも注目の戦国武将・明智光秀の遺体も晒され、歴史深い史跡。
戦国武将・明智光秀の遺体も晒された刑場跡
東山区、三条通り。かつて江戸時代には、江戸と京都を結ぶ大動脈『東海道』だった通り。今では自動車がせわしなく行き来してますが、その時代の名残りを感じる文化財や史跡が今でも随所にあります。最近では、東海道53次の昔の面影をしのぶ史跡めぐりツアーが人気で、当時の感覚を味わうために歩いたり自転車でたどる人もいたり。こちらは東山三条界隈。ここからさらに東海道を東へ。
かつて「京の七口」の一つであった粟田口は、東海道と京都の町を結ぶ入り口。昔はそんな街道口の町はずれに決まって刑場が設置され、多くの通行人への晒しもの、見せしめにされていました。
ここ東にある粟田口刑場に対して、西にある円町の「西土手刑場」もまた、そういった意味合いの立地場所だったのかもしれません。
西ノ京の地名『円町』の由来とも関係する江戸時代の処刑場「西土手刑場跡」
当時、この場所では公開処刑、磔(はりつけ)、獄門、火刑がおこなわれていました。江戸時代には毎年3回。のべ約15000人ほどがここで処刑されたとも言われています。かつて日ノ岡峠のこの刑場を望む山裾には刑死者の霊を弔う供養塔が何基も建てられました。
今年からスタートするNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で、今注目の戦国武将・明智光秀の遺体が晒された場所でもあり、さらには多くのキリシタンがかつて処刑された場所でもあり、歴史的人物ゆかりの地とも言える場所。
これらの石碑はそのころ建てられたものだそうです。
多くの歴史に彩られた東海道沿いにこんな刑場があったとは。今では車の往来激しく、かつてそんな場所だったことをうかがい知る要素といえば、これらの石碑くらいですが。
粟田口刑場跡へのツイート
そうだ、傾斜だ。蹴上のあたり、東海道は車道より少し南側の日ノ岡あたりを抜けてるんですが、完全に山越えでした。五十三次やってきてもうあと京都まで少し~楽勝~と思ってたらアッパーくらう感じ。そのピークに粟田口刑場跡。あわわ。 pic.twitter.com/7ug03JfzdW
— はづき(遺伝子組み換えを含む) (@hazuki794) June 22, 2019
基本情報
名称:粟田口刑場跡住所:京都市山科区厨子奥花鳥町
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