あのボブ・ディランが選ばれた今年のノーベル文学賞だが、その少し後、同賞事務局のスウェーデンアカデミーがディラン本人と連絡が取れていないことを公表した。その後も、ディランの受賞コメントは一切報道されておらず、このままいくと、本人の意思が確認されないまま授賞式を迎えるという展開もありえそうだ。
しかし、この事前代未聞の事態にも、コアなファンからは、「いかにもディランらしい」という声が上がっている。というのも、ボブ・ディランほどひとつの固定的な評価に押し込められることを嫌ってきたアーティストはいないからだ。
ボブ・ディランのノーベル賞が発表された直後、ほとんどのメディアは「反戦プロテストソングの旗手」というような紹介をしていた。たとえば、10月14日付「朝日新聞」朝刊では文芸評論家の川村湊氏がこのように説明をしていた。
〈反戦を訴えるなど、詩のメッセージの強さが評価された。ノーベル文学賞がこれまでとは違った方向性を帯びていることを示したといえる〉
しかし、ディランが自覚的に「反戦・プロテストソングの旗手」だったのは、デビューして数年の間でしかない。その後はまるで、そのイメージから逃れるように、目まぐるしく作風を激変させ、ファンの抱くイメージを裏切り続けてきた。1960年代中盤にはエレクトリック楽器を取り入れてロックミュージックに移行し、70年代になると、カントリーに接近してザ・バンドと活動。79年にはクリスチャンの洗礼を受けたことをきっかけにいきなりゴスペルに傾倒した。そして、97年『タイム・アウト・オブ・マインド』以降は、ブルースやジャズなど19世紀以降のアメリカ音楽の影響を色濃くしていった。
また、その詩も「強いメッセージ」というのは一面でしかなく、ある時期からはさまざまな意味に読み解くことのできる重層的な構造をもつものになっていた。
このことは本人も常々主張してきたことだ。
「定義は得意じゃない。この歌が何についてかわかるとしても、教える気はないよ。聴く人たちがそれぞれ、自分にとってどういう意味があるのかを考えればいい」
「ぼくはいつも、歌に逆向きの力を与えようとしている。そうでなければ、聴く人たちの時間を無駄に使うことになる」
彼が時事問題や社会問題をストレートに扱った「プロテストソング」から、こうした作風に激変したきっかけは、当時の恋人だったスージー・ロトロに薦められた象徴主義の詩人アルチュール・ランボーとの出会いだったという。彼は『ボブ・ディラン自伝』(菅野ヘッケル・訳/ソフトバンククリエイティブ)にこう綴っている。
〈スージーに教えられてフランスの象徴派の詩人、アルチュール・ランボーの詩を読むようになった。これも大きなことだった。そして「わたしはべつのだれかである」という題の彼の書簡を知った。このことばを見たとき、鐘が一気に鳴りはじめた。ぴったりのことばだった。どうしてもっと早くにだれかがそう言ってくれなかったのかと思った。
「わたしはべつのだれかである」──この言葉に触発されて、彼は多角的で重層的な言葉を駆使するようになった。1965年のアルバム『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』リリース時にはこういった発言を残している。
「これまでは、いわば「一次元的」な歌をうたってきた。今度の歌は「三次元的」なものにしようと思った。象徴的な表現も多く使って、多層的な歌を書いた」(『ボブ・ディラン 自由に生きる言葉』クリス・ウィリアムズ・編/夏目大・訳/イースト・プレス)
しかも、ディランに特徴的なのは、自分の音楽に対するこうした解説や分析からも徹底して距離を置こうとしてきたことだ。2006年のインタビューで彼はこう語っている。
「ポピュラー・ミュージックが生きものであるということをきちんと理解している批評家がいない。俺に関する共通認識はソングライターだということだけだろう? それからウディ・ガズリーの影響を受け、プロテストソングをまず歌い、それからロックンロールを歌い、その後一時期宗教音楽を歌っていたということだろ? でもそれは固定観念でしかない。メディアによって作り上げられた虚像だ。でも俺が公人である以上、それを避けることはできないだろうけどね」(『完全保存版 ボブ・ディラン全年代インタヴュー集』インフォレストより)
いや、この発言など、まだマシなほうかしれない。ディランは、そもそもロックミュージシャンのなかでも屈指のインタビュアー泣かせとして知られているが、彼のインタビューを読むと、とにかく記者の質問にまともに答えているものがほとんどないのだ。
たとえば、1968年のインタビューで、「自分の音楽をどう形容します?」という質問に、ディランが返した回答は「強いて言えば、ヴィジョン・ミュージック。
さらに、「曲で伝えていることに加えて、みんなに何か言いたいことは?」と聞かれると「グッド・ラック」と一言。困ったインタビュアーが「確かに歌詞にはないですね」と返しても、「いや、ちゃんとあるよ。どの曲も"グッド・ラック、うまくいくといいね"って終わっていってるよ」と、明らかな嘘を平気で言い張り続けた。
他のインタビューでは、関心事を聞かれ、「平凡な家庭を築く」「自分の子供の少年野球と誕生日パーティー」と述べたこともあったし、かと思えば、逆に「俺のレコード自体がステートメントだ」などと口にしたこともある。
また、2006年に「ローリングストーン」誌に応えたインタビューでは、なんと、あのドナルド・トランプを絶賛する発言までしている。自分のヴィジョンを世間に向けて体現できている稀有な人物として、ルイ・アームストロングやデューク・エリントンといったジャズミュージシャンの偉人の名前を口にした後、こう続けたのだ。
「俺が指しているのは自分以外の人間の現実に同調しないだけの意志の力を持ってるアーティストたちのこと。パッツィ・クラインやビリー・リー・ライリー。プラトンにソクラテス、ホイットマンにエマーソン。スリム・ハーポにドナルド・トランプ」(前掲『完全保存版 ボブ・ディラン全年代インタヴュー集』)
当時のトランプはもちろん、大統領候補などではないが、リアリティ番組『アプレンティス』の人気司会者でいまと同じような発言も口にしていた。
それはともかく、過去のこうした言動を見ていると、今回の「ノーベル賞」に対する行動もその延長線上にあるというべきだろう。辞退というわかりやすいやりかたではなく、態度表明をしないという、まさに固定的なイメージにつかまらない方法で、それをやろうとしているところがいかにもディランらしい。
ただ、ディランがひとつのイメージにつかまらないために、いかに自分の音楽スタイルを変え、インタビューで言葉をまぜっかえし、ノーベル賞事務局と連絡を絶ったとしても、ディランにはまったく変わっていない部分、変わりようのない部分がある。
それは、ディランの歌が、常に世界と対峙し続けているということだ。抽象的で難解な言葉を駆使しても、けっして自閉的にはならず、そこには必ず、社会や国家、権力、文明への批評が含まれている。たとえば、07年、アルバム『モダン・タイムズ』は明らかに戦争や権力について歌っていたし、12年、71歳で発表した『テンペスト』にも、文明の滅びというテーマに向き合うものだった。
そういう意味では、ディランは今も新しいかたちの「反戦・プロテストソングの旗手」であり続けており、まさにノーベル文学賞にふさわしい存在というべきなのかもしれない。
(新田 樹)