久保田かずのぶ(とろサーモン)と武智(スーパーマラドーナ)による、上沼恵美子に対しての「オバハン」「更年期障害」失言の余波は、1週間以上経ったいまでも続いている。
ただ、気になるのは、「女性差別」の問題だったこの騒動の論点が、いつの間にか「お笑いにおける審査員問題」にすり替わっていることだ。
たとえば、12月8日放送『新・情報7daysニュースキャスター』(TBS)でビートたけしは、『THE MANZAI』(フジテレビ)での自らの体験も交えつつこのように話している。
「俺は絶対にやらないけどね。審査員ってのは。みんな俺よりも上手いし。現役のほうが全然うまいね。時代が違うしね、自分たちの漫才ブームといまの時代とは全然違うし、ネタも違うし。体操でもなんでもそうだけど、審査員が判断しちゃいけないこともあるんだよね。好みだから。(中略)審査員やってくれって言われても行かないし、フジテレビの『THE MANZAI』も審査員がチャンピオン決めるっていうの止めさせちゃったもん」
また、12月9日放送『ワイドナショー』(フジテレビ)では、上沼と同じく審査員を務める松本人志がこのように発言した。
「彼らはなによりも勉強不足ですよ。上沼さんという人がどれだけの人か本当にわかっていない。だから、勉強不足だし、勉強が不足しているということすら勉強が出来ていないと思いますよ。
「おそらく、上沼さんのことだけを言っているわけではないと思うんですよ。これ、僕のことも含まれてるんやろうな、審査員に対する鬱憤みたいなものは溜まっているんやろうなとは思うんですよ」
なぜか、たけしも松本も、お笑いを審査することの難しさの問題として、この問題を語っているのだ。
何を言っているのだろうか。久保田や武智が審査員の点数やコメントなど審査内容を批判することには、何の問題もない。審査員がどれだけ芸歴があってどれだけ実力があって、どれだけ批評眼があって、どれだけ権力をもった大物芸能人であっても、審査結果を批判するのは自由だ。松本の言うように審査員について勉強不足だろうと、どんなに実力のない芸人だろうと、日本中が審査内容は真っ当だと審査員を支持していたとしても、審査内容が違うと思えば、批判するのは言論の自由だ。その批判が間違っていると思えば、審査員は反論すればいいだけ。お笑いであろうと、音楽であろうと、審査員が批判にさらされるのは当然のことで、だからこそ批判を引き受けたくないたけしは、審査員をやらないと言っている。
しかし、久保田と武智は上沼の審査を批判しただけでなく、「オバハン」「更年期障害」と言って攻撃したのだ。これは、審査批判ではなく、明らかな女性差別だ。問題の本質は、お笑いにおける審査のあり方などではない。
だいたい、審査員は上沼ひとりではない。松本、富澤たけし(サンドウィッチマン)、塙宣之(ナイツ)、中川礼二(中川家)、立川志らく、オール巨人(オール阪神・巨人)と全部で7人もいる。
前述『ワイドナショー』のなかで松本は、2人の発言について、「おそらく、上沼さんのことだけを言っているわけではないと思うんですよ。これ、僕のことも含まれてるんやろうな、審査員に対する鬱憤みたいなものは溜まっているんやろうなとは思うんですよ」と、審査員全体に向けられた問題であると分析しているが、ならばなぜ、そのなかで上沼だけが攻撃されたのか。
●特別低い点数を付けていないのに上沼が攻撃された理由
上沼が2人に審査員のなかでも突出して厳しい採点をしたのだろうか。いや、そうではない。実際、採点を検証してみると、上沼がスーパーマラドーナに特別厳しい点数を付けていたわけではないことがわかる。
上沼がスーパーマラドーナにつけた点数は89点だが、3位のジャルジャルには88点、6位のトム・ブラウンには86点、8位のギャロップにはスーパーマラドーナと同じ89点、9位の見取り図には88点、10位のゆにばーすには84点と、他のコンビの点数と比較すると極端に低い点数をつけたとは言えない。
また、他の審査委員と比較しても、スーパーマラドーナに対する上沼の審査が突出して低いわけではなく、中間ぐらいだ。実際、立川志らくは88点、オール巨人は87点、松本は85点と、上沼より低い点数をつけている審査委員は3人もいた。
「1点で人生が変わる」と言うなら、真っ先に批判されるのは、いちばん低い点数をつけた松本のはず。ところが2人は、上沼には「オバハン」「更年期障害」という言葉まで使って攻撃したにもかかわらず、松本には一切文句を言っていない。
ちなみに、中川礼二は90点をつけているが、これは彼がつけた点数のなかではトム・ブラウンと同じく一番低い数字。他の芸人のスコアと比較して見ると、スーパーマラドーナを最下位においたのは中川礼二だけであり、点数だけで単純に見れば、スーパーマラドーナを一番評価しなかったのは中川礼二ということになる。
また、審査員のなかで一番炎上していたのは、立川志らくであった。『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)放送中からツイッター上では視聴者から立川志らくの審査への疑問を投げかける文言が大量に投稿されていたが、2人が怒りの矛先を向けたのは立川志らくではない。
審査結果だけを見れば、上沼だけを批判する合理的理由などない。久保田は「自分の感情だけで審査せんといてください」と言っていたが、根拠なく攻撃しているのは自分たちのほうではないか。
こんなふうに言うと、「オールドスタイルを基準にしている」とか、「現役で漫才をやっていない」とか、「コメントがキツい」とか、「権力を笠に着ている」とか違う理由をいろいろ持ち出してくるだろうが、「じゃあ、巨人は?」「じゃあ、松本は?」「じゃあ、志らくは?」という話でしかない。
●芸能人の女性差別発言をまったく問題視しないテレビの体たらく
久保田は騒動後に「権力者に歯向かうと何事だと声を挙げると、一斉にそれに賛同」というラップを披露していたが、これが松本人志や島田紳助を批判して非難されていたのなら、本サイトも久保田を応援していたかもしれないが、そうではない。
結局のところ、女性である上沼が審査員のなかで叩きやすかったにすぎない。その根底には、「“オバハン”に点数を付けられたくない」「“オバハン”なら攻撃しても誰からも文句は言われない」といった、意識的か無意識かはわからないが、そうしたミソジニーがあるのが透けて見える。
これは、辻元清美衆院議員や精神科医の香山リカ、あるいは女優の水原希子が、頻繁に炎上攻撃にさらされたりネトウヨのターゲットになっている問題とも共通している。“物を言う女性”は、女性を蔑視することで自分のプライドや優位性を保とうとする男たちにとって我慢ならないのだろう。
しかし、先述した通り、世間での議論は「女性差別」から「お笑いを審査することの是非」に完全にすり替わってしまっている。
ちなみに、この論調を決定づけたのは、9日放送の『ワイドナショー』での松本の発言だろう。
先日本サイトでも報じた通り(https://lite-ra.com/2018/12/post-4416.html)、今回は相手がたまたま上沼恵美子という芸能界で強い力をもつ大物芸能人だったから、女性蔑視発言が舌禍問題となっただけであって、お笑い芸人の間ではこういった発言は日常的になされ、時には笑いのための「ネタ」にすらなっている。その女性蔑視体質は、松本もたけしも同様というか筆頭だ。
だからこそ、松本やたけしは自分にとっても都合の悪い女性蔑視問題はあえてスルーし(あるいは女性蔑視体質が染み付きすぎて問題が認識できていない可能性もあるが)、「審査員」問題に話をすり替えたのだ。
情けないのはテレビだろう。本来ならこうした芸人たちの女性差別をこそ問題にすべきなのに、松本の論点すり替えに丸乗りしている。そもそも各局ワイドショーがこの問題を扱い始めたのも、『ワイドナショー』での松本の発言が契機だ。松本の論調を確認し、松本の意に反する可能性がなくなったことから、心置きなくこの話を扱うことができるようになったというわけだ。相変わらず地上波テレビはそういった権力構造と忖度で動いていて、差別問題のひとつも批判できないのだ。
●単なる「大物芸能人への舌禍事件」として矮小化されてはいけない
現在のメディアの興味は「上沼恵美子は2人を許すのか否か」に集中している。
9日、『上沼・高田のクギズケ!』(読売テレビ)に出演した上沼は、「それとお二人のことはまったくなんにも思っておりません。
また、12月11日付のWeb版「女性自身」で記者から直撃を受けた上沼は「私思うんです。お酒を飲んでくだをまくことなんてのはよくあること。だからね、天下取ったらいいんですよ。彼らがダウンタウンのようになったら何言おうが失言になりませんからね。頑張って、日本一の漫才師になってほしいと思います」と語っている。
しかし今回の発言は、上沼個人が許すかどうかという問題ではない。問題の本質は、上沼のみならず、すべての女性とりわけ更年期障害に苦しむ女性に対する差別問題だ。
しかし、いまでは「女性蔑視」問題は完全に消えてしまった。
おそらくこの先騒動が長引くと、今度はどこかのタイミングで“心の狭いオバハン”“オバハンが権力を笠に着ている”と、上沼への非難に反転する可能性もあるだろう。上沼が2人の発言をきちんと批判することをせず、鷹揚な態度を見せたのも、その辺りの空気を読んでのことだろう。陰で2人を干し上げるようなことはするべきではないが、女性蔑視については公の場できちんと批判したほうがいいのではないか。
このままでは、この問題は単なる“大物芸能人への舌禍事件”として矮小化され、上沼が2人を許したからという言い訳でこのままフェードアウトしていくのだろうが、こうして芸能界にはびこる男尊女卑体質は温存されていくのである。
(編集部)