コロナ禍でスタッフが消毒液をかけられたことも...阪神・淡路大震災を経験した大阪ガス社長が語る災害時対応の難しさ
 1905年、3200戸に向け都市ガスの供給を始めた大阪ガス。生活に欠かすことができないインフラを守り続けてきた。
2022年3月期の最終利益は1282億円と過去最高を記録するなど順調な経営が続く。しかし、長引く新型コロナウイルスのまん延や災害時に求められる迅速な復旧など課題は少なくない。大都市のエネルギーを支える企業のトップとしてさまざまな課題に取り組む藤原正隆社長にガス事業の未来について聞いた。

大学での研究漬けから一転、ドブ板営業の新入社員時代
コロナ禍でスタッフが消毒液をかけられたことも...阪神・淡路大震災を経験した大阪ガス社長が語る災害時対応の難しさ
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―――新入社員のころの思い出は?
  私は研究職だったのですが、当時は本社配属というのがありませんでした。現場配属になりますので、現場に行くとしたら当然、製造所に行くものと思っていたんですね。ところが、営業に配属されましてね。
配属先を聞いて最初、私は「大阪ガスの営業って何をやるんだろう?」と思いました。公益事業ですのでピンとこなかったんですけど、営業先は大阪市城東区とかの中心部、当時は大阪城の横にも工場がたくさんあって、その工場が使うエネルギーはほとんど重油かあるいはプロパンガスだったんですね。都市ガスを使っていたお客様はまだ非常に少なかったです。

 ―――まだまだ都市ガスを使う時代ではなかった?
  そうです。ですから「都市ガスにすると非常にクリーンだ」と。そして「重油を貯蔵する場所がいらない」という点をアピールして「非常に大きなメリットがありますよ」という感じで営業して、重油だけのボイラーを都市ガスに変えてもらうとか、そういう営業をしていました。
とにかく工場に入って工場長とか工務課長とかと仲良くなって、ものづくりの製造プロセスを全て勉強させてもらいました。

 ―――営業で苦労した点は?
  当時、都市ガスは値段が高かったんですね、重油に比べて極めて。値段が高かったので、都市ガスを導入してもできる限り「都市ガスを使わなくて済む、エネルギーを使わなくて済む」という提案をしないとなかなか採用いただけませんでした。日々、ローラー営業ですね、ドブ板を踏む営業といいますか、そういう営業をずっとしていました。大学の時は白衣を着て研究をしていましたが、社会人になっていきなり営業担当になりましたのでびっくりしましたけど、性に合っているというか、一日中フラスコを振っている生活から外に出てお客様とコミュニケーションするというのは嫌いじゃなかったです。最初は戸惑いましたが、馴染むのも早かったですね。


「三現主義」-大きな失敗から学んだ「現場・現実・現物」の大切さ
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―――当時の思い出深いエピソードはありますか?
  若気の至りといいますか、若い時に大きな失敗をしたことでしょうか。当時、大阪市には電気メッキ工場が550社あったんですが、ほとんどがエネルギーに油のボイラーを使っていたんです。そこで油をガスに変えてもらおうとして、ガスのヒーターを作りました。とても私をかわいがってくれていた工場に行って、ようやく導入いただけましたが、途端にラインが止まってしまったんです。

 ―――工場全体のラインがですか?
  止まりました。これは本当にかわいがってくれていた会社だけに非常に怒られましたし、何回も何回も通ってようやくいただけた仕事だったのに...。
もうその時はショックを受けましたし、本当に申し訳ないなというのと「現場・現物・現実」といういわゆる「三現主義」の大切さを思い知りました。それ以降「三現主義」は、会社員人生においてとても大切な教訓になりましたね。

 ―――「現場主義」というのをよく聞きますが、現場だけではなくて「現場・現実・現物」の3つなのですね?
  私が教えられたのは「現場に行って、現物に触れて、現実を知るんだ」ということ。大阪ガスの子会社の「大阪ガスケミカル」で社長をしていた時も工場に出かけていって安全に操業されているのかという確認は、南インドでもスリランカでもベトナムでもすべて行きましたし、営業に戻ってもできるだけ現場に足を運んで、現場で何が起きているのかという確認をして、色々な企画をする、あるいは施策を打つというのは忘れないようにしています。

子会社の社長時代に手掛けた大型M&A 「ヤシ殻活性炭」の世界シェアトップに
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―――「大阪ガスケミカル」時代には大きなM&Aを成功しましたよね?
  「大阪ガスケミカル」は大阪ガス100%子会社なのですが、活性炭事業が国内では強かったものの、海外では展開がまだまだ進んでいなかったんです。そこで、ジャコビというスウェーデンの会社がありまして、M&A、買収しまして「大阪ガスケミカル」グループに入ってもらいました。
この買収でいまやココヤシのヤシ殻活性炭のシェアは「大阪ガスケミカル」が世界一になりました。

 ―――買収額は383億円というかなりの金額ですよね?
  そうですね。大阪ガスの子会社が大型買収を手掛けるというのは相当思い切ったことですね。大阪ガス本体も当時は海外に出資はしていましたけど、それはガス田の権益を買うとか、巨大プロジェクトの一部に出資をするとかが主体でしたから、大きな決断でした。ジャコビのケースは100%事業会社を買収しましたので、非常に大阪ガスの中でも賛否両論だったと思います。

社長就任後すぐに緊急事態宣言 コロナ禍でも事業を維持する難しさを痛感
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―――なぜ、社長に指名されたと思いますか?
  40年間の会社員生活の中で15年間、3分の1以上ですが、ガスとは関係ない仕事をしたことでしょうか。
ガス以外の経験が多いほうが、これからの脱炭素社会に向けての会社の道筋をつけていくという意味ではふさわしいと思っていただけたのではないかと勝手に思っています。

 ―――コロナ禍でモノの見方や考え方が変わったとかは?
  社長になったのが去年の1月1日で、7日から緊急事態宣言です。その前は営業担当の副社長だったんですね、新型コロナのまん延が始まったころは。ですので、考え方を変えるというよりかは、とにかく対応をどうしていくかというのが大変でしたね。200あるサービスショップに営業を止めてもらわないといけないんですよね、家の中に入っていくわけですから。あとは、メーターの検針を我々の関係会社にやってもらっていますが、酷いケースでは消毒液をかけられるとかそういうこともあったんですよ。

 ―――消毒液をかけられることもあったんですね?
  いまもそうですけど、エッセンシャルワーカーが3000人近くいる会社なので、ガスの製造、電気の発電、それからガスの供給、検針や請求業務、どうしても現場に行かなくちゃいけないエッセンシャルワーカーは、本当に数多くいますので。そういう人たちにいまは本当にご負担をかけ続けています。それをどのようにすれば、いかに軽減できるかというのをいまも、もがいているところですね。私のライフスタイルがどうとかいうよりは、事業をどう正常状態に近い形で推移させていくかというのは、どの企業もそうでしょうが、経営者の皆さん大変なんじゃないですかね。

 ―――大切なインフラですから緊急事態宣言でもガスや電気は供給し続けないといけないですもんね。
  安定・安全に供給して安心していただくというのが我々の使命ですし、電力ビジネスもどんなものもそうだと思いますが、それを維持していくことが非常に大変ですね。2018年の大阪府北部地震の時に私は保安の責任者を務めていまして、12万戸のお客様の供給をストップさせました。それをいかに早く回復させるかということで、結局、1週間で復旧することができました。これは何よりも現場の導管部隊、営業部隊、それと工事会社のみなさんが一致団結して取り組んでいただいた結果だと感謝しています。

阪神・淡路大震災の経験から復旧期間が飛躍的に改善
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―――それはやはり、阪神・淡路大震災から学んだ色々な対策が実を結んでいるということでしょうか?
  そうですね、阪神・淡路大震災の時は80万戸強を止めました。そして実際に復旧するのに3か月半かかっているんですね。その教訓を生かして、低圧のガス管のところを、お客様のところのガス管ですね、土で埋まっているところを高密度ポリエチレン管に変えていったんですね。高密度ポリエチレン管は折れにくいのと、断層でずれても地中でずれが起こっても伸びるんですね。ポリエチレンは非常に優れていて、腐食にも強く、しかも工事するときに軽いので鉄管よりも早く工事ができる。良いことだらけなんです。それを阪神・淡路大震災以降、置き換えに取り組みました。

 ―――阪神・淡路大震災の時は、当時の会社の雰囲気はどんな感じでしたか?
  1995年1月17日は、ちょうど寒い時期で、一番ガスが必要な時期だったんですね。当時、お客様が四百数十万戸だったと思うんですけど、そのうちの80万戸がストップしましたから、会社が潰れるのではないかというくらいの危機感はありましたし、大阪ガスとしては苦難の歴史の1ページじゃないですかね。

2025年の万博では「子どもたちが未来に希望が持てる」パビリオンを
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―――大阪・関西万博が2025年に開催されますが、藤原さんは1970年の万博の印象はいかがですか?
  当時は小学6年生で、初めて外国の人を見ました。とにかく「外国の人がたくさんいたなあ」と。いまでは町で外国の人を見かけても全く珍しくないですけども、当時は私のような大阪の田舎で育った人間がテレビや映画以外で外国の人を見ることはなかなかありませんから、とにかく外国の人がたくさんいるなと思いましたね。当時のガスパビリオンは印象に残っていますよ。外形が非常に面白い形で、「笑い」っていう形ですよね。

 ―――2025年も大阪ガスというか、全体のガス協会で?
  日本ガス協会のパビリオンとして出展すると発表をしていますので、これから中身を検討して。コロナ禍が去って、たくさんお客様もいらっしゃって、海外からもお客様がいらっしゃって、特に子どもたちに「将来の脱炭素、環境技術はこんなんなんだ」「将来にこういう希望が持てるんだ」ということをワクワクして見ていただければ、本当にうれしいですよね。

リーダーは「失敗を恐れることなくチャレンジをするフィールドを作る」
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―――大阪ガスの強みはどういった点でしょうか?
  地域の皆さんに愛される企業であると自負していますし、地域密着でやってまいりましたので、お客様の設備とかニーズをよく知っていて、そこにマッチする。いまで言いますと、省エネルギーが進むよう家庭から工場まで提案をできるという現場密着で、現場ニーズをつかまえることができる会社だと思います。

 ―――社長としての夢は?
  社長としては、やはり経営者ですから業績を上げる、計画を達成するというのがまず第一ですね。それによって目標に向かって社員ひとりひとりが自分の夢を叶えられる、自己実現が仕事を通してできるというのが一番幸せだと思うんですよね。人生の中の仕事ってすごく大きなウェイトを占めていると思うので、仕事で成功体験を積んでもらいたいなと。社員の夢が叶って、社業も成長していく、一緒に成長していくのが私の夢ですね。

 ―――最後に、藤原さんにとってリーダーとは?
  失敗を恐れることなくチャレンジをするフィールドを我々リーダーが提供して、覚悟をもってメンバーとともにチャレンジをしていく。それがリーダーだと思います。

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■藤原正隆 1958年、大阪府生まれ。1982年、京都大学工学部卒、同年入社。エネルギー事業部エネルギー開発部長、大阪ガスケミカル社長、大阪ガス副社長などを経て、2021年1月、社長就任。学生時代は剣道に打ち込む。

■大阪ガス 1905年、都市ガスの供給開始。1933年、御堂筋に本社「ガスビル(国の登録有形文化財)」を建設。2022年3月期の売上高は1兆5868億円。グループ従業員は2万人あまり。ガス供給件数は491万件。

※このインタビュー記事は、毎月第2日曜日のあさ5時30分から放送している「ザ・リーダー」をもとに再構成しました。
 『ザ・リーダー』は、毎回ひとりのリーダーに焦点をあて、その人間像をインタビューや映像で描きだすドキュメンタリー番組。