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2021年の『M-1グランプリ』( テレビ朝日系列)では、錦鯉が王座に輝く。本命視されていたオズワルドは正統派漫才で、錦鯉が非正統派漫才とされがちだが、それではなぜオズワルドが負けたのだろうか。
「オズワルドの正統派漫才が負けてしまった」という意見がある。それにしては、オズワルドは今まで、それほど目立った存在ではなかっただろう。
オズワルドが正統派漫才なのに負けたという評価は、やはり何か違う部分があるのだ。これをどういうことなのか、歴史的に、また学問的な読解・分析手法により、明確にしたい。まず正統派漫才とは、何か。正統派漫才とは「しゃべくり漫才」のこととされ、センターマイクに向かって、掛け合い漫才するものとされる。勝手な分析を続けては心もとないので、ここでひとつの文献として、ナイツ塙の『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』 を1つの参照項としよう。じつは、この著書でも、正統派漫才の解釈には、少々の幅があるのだ。
多くの人の理解とも共通して、「しゃべくり漫才」を「コント漫才」と対比させた分類だという理解が、塙の本にもみられる。突然、コントに入らずに、互いに会話し合うのが「しゃべくり漫才」。
[参考]高橋維新の「2021年M-1グランプリ」全感想
そして塙は、ウケの数に関して、「勢いよくしゃべるほう」、「早口」、「関西弁」が有利と。これには、必ずしも代表というわけではないものの、塙が『M-1』最終決戦に残った時の優勝者NON STYLEが挙げられる。また、塙の認識では、著書が出版された2年前の段階では、『M-1』の参加資格が、結成15年以内となったことで、うまさが評価される大会となったようだ。塙は、オール巨人の言葉に賛同しながらも、一方で、「下手だけど何か面白くなりそう」と、『M-1』も四千頭身のような芸人を評価する大会にできないか、という。
このように塙は、「しゃべくり漫才」と「コント漫才」の比較をしているように見えて、もう一方で、「しゃべくり漫才」の中の、「技術性の漫才」と「技術性だけでない漫才」も比較している。また、塙は、日常会話のような漫才を理想とする関西文化の土壌に言及しつつ、関西文化におけるツッコミにも着目。確かに関西弁によるしゃべくりと激しいツッコミによって、基本的な「しゃべくり漫才」が構成されるのだろう。
以上の漫才理論の上で、漫才の歴史を確認したい。エンタツ・アチャコにせよ、夢路いとし・喜味こいしにせよ、横山やすし・西川きよしにせよ、徹底して「しゃべくり漫才」というわけでもない。
「スピード漫才」に結びつく発言を先にしていた巨人の時代を遡れば、当時の「漫才ブーム」に「スピード漫才」の傾向が見いだせる。「漫才ブーム」といえば、巨人の同期にあたる『M-1』の創設者である島田紳助も当時のプレイヤーの1人。「漫才ブーム」の代表選手の1人であるビートたけしのツービートも、激しいツッコミはないものの、早口の漫才で有名だ。その後、ダウンタウンの登場を経て、「スピード漫才」ブームが落ち着いた後、『M-1』とともに、再び、漫才のスピード化や技術化が進行したのだろう。『M-1』によって、漫才の伝統の型は、「しゃべくり漫才」と「スピード漫才」の二重写しになったのだ。
[参考]女芸人No.1決定戦「THE W 」は止めて男の芸人と競うべき
結局のところ、正統派漫才とは、「しゃべくり漫才」なのだが、「漫才ブーム」から始まって、『M-1』によって確立された「スピード・技術漫才」という新たな型も生まれている。オズワルドは、「しゃべくり漫才」の形式をとってはいるだろうが、「スピード・技術漫才」の型からは大きく外れる漫才。
オズワルドは、松本と巨人のアドバイスに対し、今回の1本目のネタで、激しめのものも含む、様々なツッコミを駆使し、スピードを上げずに上方(しゃべくり)漫才の形に近づけ、両者から評価を得たのだ。ところがオズワルドの2本目のネタは、上方漫才への工夫も薄れ、難解さもある一方で、錦鯉のネタは、掛け合い的なしゃべくりからは少々ズレるものの、「スピード・技術漫才」の形式に則っていた。
まるで漫才に正解があるかのようだが、漫才も『M-1』以前は創造的に進化してきたわけで、『M-1』以降は、「競技漫才」化といわれるのも以上の経緯ゆえ。よって、錦鯉の優勝は、正統派漫才の勝利か非正統派漫才の勝利かといろいろいわれるが、かなりの程度、正統派・競技漫才寄りの勝利といえるだろう。一方で、オズワルドは、正統派漫才といえるかもしれないが、近年の漫才の歴史からすれば、非正統派ともいえる。
『M-1』でのオズワルドの敗北と錦鯉の勝利は、以上より正統派寄りの勝利であり、より正確には、「競技漫才」の歴史の勝利なのだ。今後も、正統派/非正統派とスピード・技術漫才/非スピード・技術漫才が重なるところで、論争が繰り広げられていくだろう。