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「ギャグ」とは、それ単体でおもしろいものではない。
厳密に言えば、実際にはおもしろいものもある。
これまでも何度か書いてきたが、「笑い」というのは「ズレ」から生じるものである。ギャグの中には、ちゃんとこの「ズレ」を提供するものもある。この場合のギャグは、単体でおもしろくなる可能性がある。
例えばレツゴー三匹の「三波春夫でございます」というギャグは、三波春夫でもないのに三波春夫であるという自己紹介をしているというズレがある。そして、ちゃんと「フリ」もある。
他方、大部分のギャグはこのような「ズレ」をちゃんと提供していない。大木こだまの「チッチキチ~」も、ダチョウ倶楽部の「ヤー!!」も、ダンディ坂野の「ゲッツ!」も、何らのズレを提供するものではない。
唯一あるとすれば、「突如意味不明なことを言い始めた」というズレであるが、それは全てのギャグに共通のワンパターンなものであり、何度も繰り返されるうちに受け手にも飽きられ、ズレでもなんでもなくなる。もっとも、何度も繰り返すうちに飽きられるというのはちゃんとズレのあるギャグにも共通してはいるのだが。
ではなぜギャグというものが廃れていないのか。それは、受け手を笑わせる以外の目的と効果を持っているからである。
ギャグを見たときに起きる感情は、「おもしれ~」でも「wwwww」でもなく、「あ、知ってるアレや!」「あの有名なやつや!」という感覚である。
笑いは、スケープゴートを集団から排斥して、集団の連帯を高める作用を持っている。これと同じで、ギャグを見た複数の受け手は、自分たちという集団だけが知っているギャグをみんなで一緒に見るという作業を通じて連帯を高めていくのである。
ギャグが持っているのは、この連帯を高める作用(筆者はこれを笑いの「結紮力」(けっさつりょく)と呼んでいる)でしかなく、笑いもこの作用を持っている以上、両者には親和性がある。だから、笑いにおいてギャグという手法が多用されるのである。
ちなみに、吉本新喜劇のお約束のパターンも同じ目的のもとに行われている。お約束のパターンは、何度も行われるうちに、それ自体がズレを持っているものでも飽きられてしまうが、受け手は舞台やテレビを通じてそれをみんなで一緒に見ることで、「あ、いつものアレや」という感情を抱き、みんなが共通して知っているその符丁に一緒に触れることで受け手としての連帯感を高めているのである。
連帯感を高めること自体が新喜劇を見る目的ではないだろうが、人間も集団的な生き物である以上、それはそれでひとつの快なる経験なのである。
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