中高年のアイドルへの道は新聞配達から始まった
くらたまきみまろさん、お写真よりも実物の方が若く見えますね。若さの秘訣は何ですか?
きみまろ健康に良いと言われることを続けています。お酒は飲まないですし、エアロバイクなどの運動を習慣にしています。
すごいですね。長年お仕事への情熱を持ち続けていらっしゃいますが、キャリアのスタートについて改めて、教えて頂けませんか?。
きみまろ司会業に憧れて東京へ出てきたのが18歳のときです。私は、鹿児島の片田舎の農村で育ちました。父は農家をしながら農耕馬の種付師をしていたんです。貧しいながらも愛情をかけて育ててくれました。
くらたま今のお仕事に繋がるきっかけって何だったんですか?
きみまろ子どものころから、司会やスポーツの実況などを真似しては、友だちを笑わせるのが好きでした。父に連れられて行った子牛の競りのマネは当時の「18番」。面白い話をすることで人を笑わせることへの興味はその頃からありましたね。
当時は、司会者の玉置宏さん、宮尾たか志さん、高橋圭三さんらが人気を博した時代で、「ロッテ歌のアルバム」という歌番組での玉置さんの名台詞を練習しては、友人たちに見せていました。
司会業を目指すと言っても、何かツテがあったわけではないですよね?
きみまろツテも知り合いもない。一人ぼっちでしたよ。住むところも仕事もなかったので、大学に通いながら新聞販売店の住みこみのバイトから東京での生活を始めたんです。
くらたますごいですね。そこから、どうやって司会業につながったのですか?
きみまろ当時、北千住にある総合病院にも新聞を配りに行っていました。そこの病棟に、キャバレーの営業部長をしていた患者さんが3カ月ほど入院していたんです。
私はいつも予備の新聞を持って配達していたんですが、それをその方にあげて読んでもらっていました。同じ鹿児島出身ということもあり、だんだん仲良くなっていったんです。
ある日その方に「配達のバイトを辞めたいんですけど」って相談しました。すると「うちのキャバレーに来るか」って。そしてキャバレーのボーイをやることになりました。
無理に団体行動をさせずに、一人でゆっくりする時間をつくってあげる。
ところが日本の高齢者の多くは”おしゃれ”の視点がない寝間着のような服を着て、車いすに乗って一日を過ごしています。
くらたま確かにそうですね。
きみまろスウェーデンは、管だらけの無理な延命治療もしない。最期の時間は本人のしたい生き方をして終えていく。幸せに最期を迎える人も多いのではないかと思います。
実は、私の母は管をつけた状態で亡くなるまでの数年間を生きていました。そんな母の姿を見る中で、「このような状態を経験しないと、あの世に行けないのかな」と思っていました。だから私は、無理な延命治療を受けたいとは思わないんです。
理想はピンピンコロリ。でも、どんな理由で亡くなるのかはわかってから最期を迎えたいという思いがもあります。

ピンピンコロリ憧れます。ちなみに、きみまろさんは、やり残したと思うことなんてあります?
きみまろ私は、なかなか世に出られずに悔しい思いをしたけど、今振り返ってみらた大成功だと思います。世に出させてもらって、ブレイクさせてもらって、みんなに知ってもらうことができた。
くらたま間違いないですね。
きみまろこれ以上望むのは欲だと思うんです。今こうしていれるのもおまけなんじゃないかと。今日こうやって出会えたことも奇跡みたいなもんだと思っています。だから出会いを大事にして、縁と運と努力と体力で、頑張っていきたいと思います。
くらたまきれいにまとめていただきました。さすがです!70代のきみまろさんの漫談がどんなふうに変わっていくのか、これからも楽しみにしています。
- 撮影:丸山剛史

綾小路きみまろ
1950年、鹿児島県出身。司会者を目指して上京し、1979年に漫談家としてデビュー。